不動院の由来に関する資料
那珂町郷土史編纂委員会編「わが郷土」
菅谷の「不動院」
不動院は、菅谷字両宮にあり、真言宗である。ここにはもと鹿島神社・八幡神社の両宮があったが、両宮の神宮寺として応永二十九年(1422年)三月に創建された。開基は宥棟阿闍梨である。
延宝三年光圀の命により照慶法師を中興開山とし、荒廃していた寺を再興し、
武田山不動院大聖寺と改めた。寛文十三年(1673年)である。寺領二十八石を賜った
本堂の前の不動堂は元禄二年(1689年)十一月金剛院宥信が建立し、お不動様として広く親しまれている。昭和三十四年庫裡を再建した。
[那珂町史]
「那珂町史(自然環境・原始古代編)」の中で、現在のひたちなか市に含まれる郷の一つの武田郷と菅谷の関連についての記述の中で、菅谷の不動院の由来を次のように類推している。
武田郷を現在の勝田市武田を中心とする地にあてることでは、「郡郷考」「新編常陸国誌」「地名辞書」とも一致する。
問題は、那珂町の菅谷がこの郷に含まれていたか否かであって、「郡郷考」「新編常陸国誌」は、菅谷に武田不動院があることから菅谷も武田郷に含めるのである。
しかし、「勝田市史(原始・古代編)」は、「願行流血脈」(小松寺 文書)に、宥尊の弟子宥棟が開山した高場不動院が「武田ト云」と記され、武田不動院とも呼ばれていたことがわかることから、
武田不動院は、もとから菅谷の地に建立されたものではなく、初めは高場の地にあったものが、のちに菅谷に移ったものであるとし、ゆえに、菅谷に武田不動院があることは、
菅谷が武田郷であったことの根拠とはなり得ず、「古代の武田郷の範囲が、菅谷まで含んでいたとは思われない」と主張している。
「地名辞書」も、「旧説、菅谷に武田山不動院てふ寺あるを以て、此地も武田郷の属かといへり。されど、
武田と菅谷は、形勢相依附する所少し」と菅谷が武田郷であるという説に懐疑的であって、今の所、問題の残る菅谷は除外して、
諸説とも一致している勝田市武田周辺の地を武田郷とするのが妥当であろう。
さらに、「那珂町史(中世・近世編)」の中で、徳川光圀が正しい仏教を興そうとして、領内の社寺整理を行なったことにふれている。
由緒のある寺院は残し、由緒の無い小寺院は破却する方針が貫かれた。
その一環として、多くの引寺も行われた。
その中で不動院について次のように紹介されている。
菅谷村の真言宗不動院(武田山大聖寺)は、延宝元年神宮寺を破却、その跡へ青柳村(水戸市)の大聖寺を引寺し、千寿院と改称させ、
さらに元禄七年不動院と改号させたものである。(注1)
(注1)元文三年「野々上・武茂両組鎮守改帳」(飯田 大和田まさ氏 所蔵)
また、「那珂町史(中世・近世編)」の中の那珂地方の寺院の説明の項で、不動院を下記のように紹介している。
武田山 不動院 大聖寺と号する。
寺伝によれば、応永29年(1422年)3月に菅谷の鹿島神社と八幡神社の両宮の神宮寺として、
宥棟を開基として創建されたという。
「勝田市史」によれば宥棟が開いたのは高場(ひたちなか市)の不動院で、
高場はかって武田郷に属していたから武田山不動院とも言われたが、
何らかの理由で菅谷に移され、菅谷の神宮寺となったとしている。
宥棟は、宥尊の弟子であるが、「宥信記宥尊感得静明神体覚」(小松寺文書)によれば、
宥棟は、上宥などに伝えられてきた願行流の重宝を数多く所有していたという。
神宮寺は延宝元年(1673年)につぶされ跡地に青柳村(水戸市)大聖寺を引寺して千寿院と改め、元禄7年(1694年)に不動院と改号したという。
また、「わが郷土」は、延宝三年光圀の命により照慶法師を中興開山とし、荒廃していた寺を再興し、
現在の寺号と改めたとする。
[勝田市史]
菅谷の「不動院」
「勝田市史(原始・古代編)」の中で、現在のひたちなか市に含まれる郷の一つの武田郷についての記述の中で、菅谷の不動院の由来を次のように類推している。
「新編常陸国誌」は、武田郷の位置について、次のように記している。
『 倭名鈔云、武田按ずるに、今の武田村これなり、この村の北菅谷村あり、
其の地に不動院と云ふ密寺あり、武田山と号す、
この辺凡て武田郷なること推して知べし、倭名鈔及地図を按ずるに、
この郷東は岡田郷に接し、西は河内郷隣り、南は那珂川に涯りて、志万郷に対し、
北は久慈郡木前、美和両郷に堺を接して、武田、勝倉、堀口、枝川、津田、市毛、菅谷、田彦、稲田等の九村、
7千石ばかりの地、皆古の武田郷なり、この郷中世吉田郡に属せり、・・・・・・・ 』
古代の武田郷の範囲が、菅谷まで含んでいたとは思われない。
「新編常陸国誌」が菅谷の地を武田郷に入れたのは、菅谷に武田山不動院という真言宗の寺院があるので、武田山と武田の地を結び付けたのである。
しかし、武田山不動院は、もとから菅谷の地に建立されたのではない。
「願行流血脈」(小松寺 文書)によると、宥尊の弟子宥棟が開山した高場不動院は「武田ト云」と記されているので、武田不動院とも呼ばれていたのである。
したがって、武田不動院は初めは高場にあったものが、のちに菅谷に移り武田不動院の名をついだことは明らかである。
また、北は久慈郡木前、美和両郷に堺を接する、とあるが、後述のように美和郷を高野や足崎などの地にあてはめることは誤りである。
武田郷の中心は、現在の武田にあったことは確かである。平安時代末の仁平元年(1151年)4月8日の吉田郡倉員に対する「常陸国留守所下文」に、
「早く御庁宣旨に任せ、武田荒野を領知せしむべき事」とある。
武田が武田郷にあたることはいうまでもない。
この下文にみえる「武田荒野」を武田郷の地にある「荒野」とすれば、
荒野は現在の高野にあたるのではないだろうか。
また、先にみたように高場不動院が、武田不動院とも呼ばれたのは、
高場の地がかっては武田郷に属していたものと思われる。
つまり、[勝田市史]編集者の説では、武田不動院は最初から菅谷に建立されたのではなく、初め高場に建立され、高場不動院と呼ばれていた。
しかし、後になんらかの理由で菅谷に移され、武田山不動院の名を継いだということである。
[水戸市史]
不動院のカヤ
水戸市史(上巻)の那珂地方の真言宗の発展の説明の項で、真言宗の中の願行流について詳しく説明している。
願行流は願行房憲静に由来するものである。
特に、南北朝末の名僧として聞こえた宥尊を小松寺の中興開山とするにおよんで、小松寺は那珂地方の真言宗の一大中心となった。
宥尊には15人の付法の弟子がいた。彼らが開創や中興した那珂郡、多賀郡、茨城郡、久慈郡に散在する12の寺は「河根十二か寺」と総称された。
宥尊の門流が那珂地方に展開したありざまは下記の「願行流血脈」によって明らかになっている。
下記の法流から分かるように、不動院開山の宥棟は宥尊の弟子の一人である。また、青柳大聖寺は宥尊の孫弟子宥加が開山したものである。
ここからは、私の類推であるが、光圀の時代に不動院は荒廃しており、鹿島神社・八幡神社の両宮の神宮寺として菅谷にあった。
一方、青柳には上記大聖寺があり、何れも由緒のある寺院として知られていた。当時、光圀が正しい仏教を興そうとして、領内の社寺整理を行なっており、
由緒のある寺院は残し、由緒の無い小寺院は破却する方針が貫かれた。そこで、この一環として光圀は青柳大聖寺を菅谷に引寺し、
由緒のある不動院を中興開山したのであろう。
「願行流血脈」は巻き物で、教主大日如来から弘法大師空海まで連なる「付法の八祖」から始まる膨大な「願行流」の師弟関係(法の流れ)が書かれている。
大日如来
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金剛薩タ(土へんに垂) : 大日如来の直弟子
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龍猛菩薩 : 三鈷杵を右手に持っている
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龍智菩薩 : 経文を右手に持っている
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金剛智三蔵 : 数珠を右手に持っている
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不空三蔵 : 外縛印を結んでいる
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恵果和尚 : 椅子に座り、横に童を侍らせている
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弘法大師 : 五鈷杵を右手に持っている
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(----中略---)
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上宥(市外石塚佐久山浄瑠璃光寺・市外那珂西宝幢院)
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宥尊(市外上入野小松寺・市外石塚佐久山浄瑠璃光寺・市外那珂西宝幢院)
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|−宥実(市外石塚佐久山浄瑠璃光寺)
|−宥全(市外那珂西宝幢院)
|−宥覚(市外六反田六地蔵寺)
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- |−宥長(鯉淵福寿院)
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- |−宥弁(開江浄蔵院)
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- |−宥加(青柳大聖寺):菅谷に引寺して不動院と改号
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- |−宥弘(性海寺)
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- |−宥怡(神生和光院)
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- |−宥海(吉田藤福寺)
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|−宥待(市外那珂湊華蔵院)
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- |−宥照(市外柿岡南蔵院)
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- |−頼宥(市外安飾か、不断院)
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- |−宥伝(市外石崎一心院)
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- |−宥栄(渡里長福寺)
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|−宥崎(市外太田宝鏡院、後水戸)
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- |−宥位(河和田密蔵院)
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- |−宥伝(市外岩崎宝徳寺)
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|−宥祖(市外大貫西光院、太田一乗院、後水戸)
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- |−宥胤(佐賀か、東福寺)
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- |−宥頓(遍照院)
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|−宥鑒(市外上入野小松寺)
|−宥心(市外石塚金剛院)
|−尊宥(市外入野地蔵院)
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- |−尊許(市外入野文殊院)
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- |−範宥(市外太田梅松院)
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- |−宥悦(市外高久吉祥院)
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|−宥印(下野国須沢村観音寺)
|−宥音(下野国下村泉福寺)
|−宥棟(市外武田村不動院):菅谷の神宮寺となり、後に荒廃のため青柳大聖寺を引寺
|−宥幸(飯富竜光院)
|−宥長(市外門部正覚院)