根本 正は江戸から昭和のまさに激動の時代を生きました。
何をした人かというと...
根本正は嘉永4年(1851年)五台村東木倉(ごだいむらひがしきのくら)に生まれた。現在の茨城県那珂郡那珂町東木の倉である。今でも東木の倉集落のほとんどは根本姓であり、同姓24軒のコミュニティを形成している。現在では根本一族によって守られている地域以外は水戸市のベッドタウンとして開発が進み、美しい緑の残るのは木の倉一帯だけになってしまっている。
根本一族は藤原氏に始まり、現在の当主は藤原鎌足より36代目にあたる根本喜代寿氏である。木の倉集落は本坪と向こう坪とよばれる2つの台地にまたがり、江戸時代より農業に携わってきた。もともとは水戸を治めた佐竹氏の家臣だったが、佐竹氏移封のおりに帰農して現在に至っている。主人の無念を思い、正月の飾りを飾らないのが根本家のしきたりとなっている。佐竹の殿様の直系のかたはこの律儀な一族をどう思われるだろうか。
正の父はその木の倉で庄屋をしていた。父徳孝、母は「はや」、長男東之助に続いて生をうけている。幼いころは祖父に読み書きを習った。
9才(万延元年、1860年)で正は神主の佐川伊予之介の主催する塾にはいる。水戸と切っても切れない桜田門外の変の年のである。数年、佐川塾で学んだ後、正はもっと進んだ学問を勉強したくなったようだ。
「こんな田舎にくすぶっていては将来名をなすことはできない」
正は13才で佐川塾を離れ水戸へ出て彰考館の総裁の下僕として住み込んだ。彰校館では水戸黄門として知られる光圀公が始めた大事業、「大日本史」の編纂を進めていた。ところが当時は桜田門の一件以来、天狗党と諸生党の反目が顕著になっていた。開国と明治維新の胎動の時代であった。口伝によると住み込みの下僕であるはずの正は弘道館(水戸藩の藩校)での聴講すら許されたようだ。
粛正により天狗党が水戸藩内から一掃されると正は天狗党派閥であった主を失い、郡の役人となって糊口を養うのだった。それでも彼の旺盛な向学心は健在だった。まだ若い正は、あるとき時計とマッチを見せられる、なにやら精密な機械が時を刻む。また、木切れをすると瞬時に火がつく。これはテクノショックであった。だれがこういう物を作るのかと訊ねた彼はそれが西洋人であると知らされる。若い正は直観的に将来は機械文明となる、そのためには進んだ科学文明をもつ西洋を知らねばならない、と知った。横文字をならわねばならない、と。
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