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水戸市桜川2-2-35 産業会館14階

カウンセリングエッセイ

 


 カウンセラーによるエッセイコーナー、どうぞ気軽にお読みください。
 私は「ノブヒコ」という名前です。小さい頃から「ノブちゃん」とか「ノブさん」とか呼ばれていました。ですから「ノブさん」です。この似顔絵風イラストは、友人のイラストレーター平田トクさんの作です。似顔絵ともども、どうぞよろしくお願いします。
 さて1回目は、あのガンジーの言葉がカウンセリングの精神そのものを表しているというお話です。
 

握り拳では、握手できない


 インド独立の父で非暴力運動の指導者、マハトマ・ガンジーの言葉に表題に掲げたものがあります。正確には、「握り拳とは、握手できない」ですが、カウンセラーとしての私には表題のように聞こえてきました。相手のこととしてではなく、自分のこととして響いてきたのです。
 偉大なガンジーの言う「握り拳」とは、私たちの心の状態のことでしょう。攻撃や憎しみの心、かたくなで自己中心の心こそ、人類の最大の敵であると、彼は身をもって教えてくれました。しかも彼の凄いところは、独立運動において、祖国を隷従させている英国本土よりも、祖国の内なる強烈な足の引っ張り合いよりも、自分自身の中の「握り拳」こそ最も偉大なるテマであったと告白していることです。
 カウンセリングでは、相手と心が通じ合うこと、つまり「心で握手すること」が生命線ですから、カウンセラーの心の状態が「握り拳」ではどうしようもないということになります。それでは「握り拳」がゆっくりとやわらかく開かれていくにはどうしたらいいのでしょう。
 ひとつだけ言えることがあります。カウンセラー(よき聴き手)になるためには、まず「よく聴いてもらう体験」が一番大切だということです。それは、よく聴いてもらい、受けとめてもらい、感じとってもらうことで、自分の「心の握り拳」が次第にほどけていき、やわらかくなっていき、ついには開かれていくという体験こそ、よき聴き手になるための最も重要な体験だからです。そのとき、人は、相手と握手する姿勢ができているのです。そしておそらく、自分自身の心とも握手する準備ができている。
 こう考えると、やはりカウンセリングを学ぶことは、心のやわらかさを求める人なら、だれにでも開かれていることで、だれにでも必要なことといえるのではないでしょうか。
 最後にもうひとつ。握り拳ではできないことがあります…。そうです。「拍手」です。相手をほめること、讃えることです。「あなたは素晴らしい」と伝えることです。あるオーケストラの指揮者は言いました。
「私は時に思う。演奏会で最も美しい音楽は、鳴り止まぬ観客の拍手ではないかと」





  

ほっとする

 食事していて私が「おいしいね」と言い、妻も「おいしいね」と言ってくれると、本当においしく感じられます。喜びを分かち合う人がいるのはうれしいことです。
 私が「困ったな」とため息をついたとき、妻が「困ったね」と返してくれると、なぜかほっとします。一緒に困ってくれるのは、苦しみや不安を分かち合ってくれることですから、ありがたいと思います。
 お釈迦様は「一切皆苦」(人生は苦である)と言いましたが、年齢を重ねるごとに本当にそうだと思いますし、私自身が救われる気がします。坂上二郎さんじゃないけれど、「何でこうなるの」と言いたくなるほど、次から次へと困ったことや苦しいことがやってきます。それでも夫婦で心を悩ませながら、「取りあえず、こうやってみようか」「そうだね」なんてことが言えると、問題と取り組む勇気が少しずつ湧いてきます。
 周りから理解されずに一人で悩むことや、「まいった」と言える相手がいないのは、とてもつらいものです。問題が解決しなくても(解決など難しいことが多いのですが)、誰か一緒に悩んでくれる人がいると、それだけでほっとします。
 以前、私たち夫婦は認知症になった私の父の在宅介護をしました。心身ともにへとへとになりましたが、妻は献身的によくやってくれました。しかし、その無理が重なって妻は身体を壊してしまい、父が亡くなって十年たつのに今も体調がすぐれません。私が「あの時は無理をさせて申し訳なかったね」と言い、妻が「本当に大変だったなぁ。でも二人してよくがんばったね」と言い、二人で苦労をねぎらい合うと、今でもトラウマになっているあのころのつらさが、多少癒される気がします。
 ほっとする、安心する、人心地がつく、ということは、苦しんでいる人が最も求めていることのように思います。それは誰かに自分をそのまま受け止めてもらう感覚であり、自分のことを理解してもらえている感覚です。そしてそれがあるからこそ、苦しみの中でも生きていくためのほのかな勇気が育つのだと思います。




 
 

編集後記3月号より

 前から気になっていて、ずっと寝かせていた本をやっと読み終えました。清々しく、心に明るい光が差したのでお勧めします。
 本のタイトルは「コーヒーはぼくの杖」(株式会社三才ブックス)。発達障害を抱えた岩野響さんが不登校になったのち、家族の協力や人との出会いによって焙煎士として生きる道を歩もうと決意した物語です。彼と両親、それぞれの立場から正直に語られる言葉は、ストレートに読み手の私へ響いてきました。「ふつうって何だろう?」「私にとっての杖は?」読後のコーヒーをじっくり味わいながら、自分の答えを見つけたくなる本に出会いました。



 

編集後記4月号より

 4月1日に新元号が発表されました。「令和」、いいわ~。響きが凛として美しいですね。
 手話では、五本の指先をすぼめ、ゆっくり開きながら前に出す動きで表現するそうです。歌の振り付けのようで覚えやすい!未来に向けて蕾が花開くことをイメージした動き…、これはカウンセリングにぴったりではないかと思いました。かたく閉ざされていた心が、よき聴き手と出会い、ふわっと開かれていく。
 よき聴き手を求めている方は、ぜひセンターにお越しください。蕾のあなたも、もう花が散ってしまったよというあなたもお待ちしております。




 

編集後記5月号より

 史上初の10連休が終わりました。長すぎて休み疲れた人もいるでしょうか。私は最終日に、マイナスイオンを求めて袋田の滝へ行ってきました。最後ぐらいは家でのんびりしたい派が多かったせいか、行きも帰りもスイスイでした。
 帰る途中、こんな光景を見かけました。眩しく光る草原に犬が2匹、仲良く並んでひなたぼっこをしていたのです。しかも全く同じ寝相で。安心しきってお昼寝する姿は、なんとも幸せそうで…にっこり。鳥の歌声に耳を澄ませて、光と風を存分に味わう。そうか、休むってこういうことか。スマホを握りしめていた手がゆるんだ午後のひとときでした。



 

編集後記6月号より

 6月は新茶が美味しい季節。先日庭先カフェというイベントに参加しました。城里町特産の古内茶と軽食つきで3コイン。子供の頃からお茶好きな私としてはスルーできません。これは行かなくちゃ!
 最初にお邪魔したお宅では、五目おこわにきゅうりと白菜の漬け物、たけのこの煮物にお饅頭まで出てきて、盛り沢山のおもてなし。お腹いっぱいでフゥフゥ言いながら、お茶をいただきました。
 せっかくだからもう1軒と伺った先では、とにかく驚かされました。見事な薔薇のアーチを抜けると、辺り一面に広がる溢れんばかりの薔薇、薔薇、薔薇。どこを見ても美しい庭に感嘆のため息が…。幸福感いっぱいでいただくお茶は格別でした。




  

晴れやかな日も、雨の日も


 口元に赤い吹き出物ができました。口の周りは胃腸の調子が悪いと荒れると聞いたことがあるな…、食生活が乱れていたのかな…、生活リズムが崩れていたのかな…。そのうち赤いブツブツはどんどん大きくなり、3~4つあったブツブツ同士が合体し、1~2日の間に大きな目立つものになりました。しかも、チクチク、ズキズキ痛いっ!のです。あった薬をとりあえず塗って様子をみていましたが、どんどんひどくなっている様子。そして、今度は顎の下までぽっこり腫れてきました。何か悪いものができてしまったのでは…と思いとても心配になってきました。そして、口元の吹き出物は、4日後ぐらいにはますますひどくなり赤黒く膿んでしまったようでした。いよいよ病院へいってみようと思いましたが、その日は日曜。ダメ元で日曜でもやっている病院を調べてみました。すると、日曜も診察しているところを見つけ、病院へ急ぎました。すぐに医師は「あ~、ヘルペスだね~。少しずつ治り始めているね。」と教えてくれました。顎の下の腫れのことも伝えると、リンパ腺が腫れているためとのことで、ひとまず安心しました。ヘルペスは、疲れているときにでやすいものだそうです。

 しばらくの間、心配なことがいくつかありました。仕事上の心配ごと、家族が病気になったこと…そんなことを考えていたら、ある朝、家を出て少したったところで、「あれ?電気ストーブ消してきたかな?」と気になりはじめました。コンセントを抜いたような…、「よし大丈夫!」と確認したのは、昨日の光景だったかな…??と、落ち着かなくなりました。一度戻ると遅刻してしまいます。た・ぶ・ん・大丈夫… と出勤しましたが、やはり気になります。テレビでは、連日火事のニュースが流れていました。もし、近隣に火事が広がってしまったら… 考えれば考えるほど、心配になってきました。こんなに心配しているなら、お昼休みの時間に急いで家に戻って確かめてこようかな… この日は家に帰るまで、ずーっと火事になっていないかきがかりでした。もうここまできたら同じなのですが、帰りも急いで帰りました。家が目に入ったとき、「あぁ、大丈夫だった…」と心からホッとしました。口元のプツプツができ始めたのはその次の日からでした。

 昨年家族が病気になり、突然のことに動揺し、また「いのちには限りがある」という事実を改めて感じました。そんなとき、『がん哲学外来の話』(樋野 興夫著 小学館)という本に出会いました。以前から、「がん哲学外来」という科が病院に開設され始め、がんを患った方やそのご家族の相談に応じているとTVや新聞で目にしていて興味がありました。ですが、なかなか本を手にするまでにには至りませんでした。これからどうなっていくのだろう…という不安ばかりのとき、本のことを思い出しました。本にはがん患者さんとその家族に寄り添い、あたたかな希望の種をさしだしてくれるようなメッセージがあふれていました。例えば、『「する」ことより「いる」ことのやさしさ』などとという言葉があります。家族や身近な人ががんになったとき、どのように声をかけていいかわからないと悩む方へ、著書は『何もせずに、ただ、そばにいてあげれば、それでいいんです』と伝えます。また、「自分の病状について安心して話せる、じっくりと聞いてもらえる場がない」という悩みには、『暇気な風貌』で『脇を甘く』して、患者さんや家族が安心して話せる雰囲気作りに努めているそうです。そして、『がん患者さんは感受性が鋭敏です。表面的な気休めにすぎないことを口にしたらそのことを簡単に見抜かれてしまいます。言葉をとりつくろっても、真剣に死と向き合ってる人には通用しません』など、はっとすることを教えてくれます。ふと、この「がん患者さん」というところを、「悩んでいる人」に置き換えて読んでみても、同じことが言えるのではないかと思います。どの部分を読んでも誠実に相手のこころに寄り添う姿勢なのです。本の向こうから静かに、しかし、しっかりと崩れかけたこころを支えてくれてる人がいると伝わってきました。

 宗教の分野では仏教、キリスト教など宗派にとらわれず、終末期の患者さんやその家族、またお年寄りや身内を亡くされた方のそばに寄り添い、相手の話にじっくり耳を傾ける「臨床宗教師」という活動が広まってきているそうです。そして、がん哲学外来の活動は、がん哲学カフェという形でがん患者さん、その家族、がん医療に携わるスタッフ、がん領域に関心を持ってる方が集い、各々の立場の垣根を越えてがんや人生について語り合う市民活動に広がってきています。健康、健康でないに関わらず、また専門家、専門家でないにかかわらず、わたしたちはたくさんのものを抱えたり、背負いながら毎日を過ごしています。ときには誰かの支えが必要なときもあり、私も周囲の方の協力なサポートと本からのメッセージに何度も支えてもらいました。「お互いさま」という風土がこれからますます必要になってくるのではないかと感じます。心配ごとが少しずつ消化され、家族の病気がひとまず落ち着いたこともあり、口元の赤いブツブツ痕はようやく目立たなくなってきました。

引用文献:『がん哲学外来の話』 小学館 樋野 興夫 著

参考文献:『いい覚悟で生きる~がん哲学外来から広がる言葉の処方箋~』 小学館 樋野 興夫 著
     『がんと暮らす人のために~がん哲学の智恵~』 主婦の友 樋野 興夫 著 




 

「迷惑をかけない」とは?


 このところの熊本の大地震の報道を見ていると、日本中どこも安全なところはないのだなあ。3.11の震災の時は茨城も余震が続いて、ライフラインも途絶えて不便な中毎日心細かったなあと思い出し、熊本の方々の大変さを思います。
 3.11の震災の後、NHKの番組に歌人の俵万智さんが出演していました。1987年の「サラダ記念日」という歌集で一世を風靡した俵さんですが、いつの間にか7歳の子をもつシングルマザーになっておられました。東日本大震災のあの日、親子は仙台で暮らしていたのですが、仕事で東京に来ていた俵さんは、息子さんと再会するまで5日もかかったそうです。震災によるストレスのためか指しゃぶりなどを始めた息子さんを連れ、西へ西へと逃れて、現在は沖縄の石垣島で暮らしておられました。「逃げられる人はいいよね」といった非難も受けたとのこと。それに対して「震災後、多くの人が、自分は人生で何を一番大切にしたいかという事を考えただろう。私の場合は子どもだった。」と答えておられました。
 なかでも印象に残ったのは「私はこれまで子どもに『人に迷惑をかけない人間になるように』と教えてきました。でも、震災を経験して、人に迷惑をかけずに生きる事などできないのだ。迷惑をかけずに生きられるというのは奢った考えだ。と思うようになった。だから今は子どもに『困ったら人に助けを求めなさい。迷惑を掛け合って、自分にできる事がある時はだれかの役に立つように』と伝えるようになりました」といった内容の言葉です。

 私たちは日頃、職場でも近所でもお互い迷惑をかけないようにと思いながら暮らしているように思います。迷惑をかけてはいけないという価値観があまりにも強く働きすぎて、どんなに辛くても助けを求めにくい社会を作っているのではないでしょうか?
 もう一つ、これもテレビでの話ですが、だいぶ前に見たので記憶が曖昧なところもありますが、印象に残っているので書いてみます。
 確か東大の院生の若い男性が、東京での狭い集合住宅での暮らしに息が詰まり、下町の古い木造の一軒家が安く借りられるのを知って、奥さんと住み始めました。現在はお子さんも生まれ家族4人で暮らしておられました。その家に合わせて懐かしい昭和初期の生活をしており、昔よくあったガスコンロで炊く炊飯器や、金色の丸いヤカン、ボンと音がして火がつくガス湯沸かし器などがあり、台所脇の床板を外すと大きなたらいが表れ行水程度ではあるけれどお風呂として使っていました。
 そんな生活がとても気に入っているとのことでしたが、住み始めた頃は、とても困った事があったそうです。というのは、夕食時になると縁側に近所のおじいさんが一升瓶を持って必ず現れ、ひとしきり下町での暮らし方を一席ぶって帰るのだそうです。「人付き合いはわざと借りをつくることが大事。醤油がなければ、コンビニなんかに行かず隣りのうちに借りに行く。そうすると、隣も困ったときには気兼ねなくあんたを頼ってくれるってもんだ」と。便利になった今では隣近所にお世話になることもなく、付き合いが疎遠になっています。それじゃあいざという時に困るのだと教えられ、今では、田舎から野菜が送られてきたら配って歩き、帰りにおかずなどお裾分けをもらうという近所付き合いをしているそうです。
 「迷惑をかけない」という価値観があった一方で、昔の下町の人付き合いでは、あえて借りを作って垣根を
低くするという方法を使っていたのだなあと思いました。現代の都市部の生活は、便利さを追求し、近所付き合い、親戚付き合いをしなくてもやっていける社会になっています。付き合いで生じる人間関係の煩わしさから逃れようという傾向もあります。しかし、ひとたび震災のような出来事が起きると、一人で対処できず、町の人が力を合わせてがれきを片付けるといったつながりや励まし合いが必要なんだということを思い知らされます。昔の下町の人たちは、人間の弱さをよく知っていたからこそ、日頃からの付き合いを大切にしていたのだろうと思いました。

 これに関連する事として、私が心理学を学んで初めて「そうなんだ」と思ったのは、ある先生が「本当の自立とは、適度に周りに依存できる事です」と黒板に書かれた時です。それまで、自立とは誰にも迷惑をかけず、一人で生きて行く事だというイメージだったので驚いたのです。人間は迷惑をかけることなく一人で何でもできるほど強くない。また、一人で頑張りすぎてポキッと折れてしまえば、適度な依存どころか、多大な迷惑をかけてしまう。そうなる前にしなやかに周りに助けを求めて、支え合って生きていくことが本当の自立なのだなあと思いました。
 「迷惑をかけずに」と肩肘張らず、もっとお互い安心して助けを求め、支え合う事ができることを大切にして行きたいなあと思うこの頃です。





 

生きる姿勢を見直す ~親の死と介護を通して~


 両親の世話、母の死、残された父親の介護で明け暮れたこの1年間は、私の「生きる姿勢」を根本からみつめざるをえない機関でもありました。二人暮らしの両親は、私の妻が定期的に通って世話をしていましたが、昨年から急速に心身の衰えが目立ち、私たちの負担も重くなっていました。母は昨年7月に入り体調を崩し、家庭医は夏風邪との診断でしたが、回復しないため8月上旬に別の病院に入院すると「末期ガンであり余命は1か月」と宣告されました。思ってもみない事態でしたが、私は医師に、無理な延命措置は希望しないがガンの痛みだけは和らげて最期を迎えさせてほしいと頼みました。

〇死を受け入れることの大変さ
 母は、入院後二週間で83才で亡くなりました。入院直前に母は「生き神と死に神が自分をめぐって争い、生き神が勝った」という夢をみて、自分の回復を信じようとしました。また入院当初、母は「これまで上れなかった白くて高い階段が目の前でスーッと平らになった」という夢をみました。事態を承知していた私と妻は夢を「あの世への階段が登れるようになった(=死が近づいた)」と解釈しました。逆に母は「これで私は助かる」と解釈しました。このように死への不安がとても強い母でしたので、母をパニックにさせる可能性が高いガンの告知は結局できませんでした。
 一方89才になる父は、母の入院すら理解できないほど痴呆的状態が進んでいましたが、無意識のレベルでは「家で葬式が出た。自分が喪主だ」という夢を見て状況を認識していました。そして何度か母を見舞う中で、苦しみつつ意識が薄れていく母を見て、父は母の手を握り「可哀想になぁ。でも誰でも一度は通る道だからせめて楽に逝かせてやりたいなぁ」としみじみと語りかけたのには、感慨深いものがありました。
 母は危篤状況になっても苦しそうな息をしながら必死に生き続けようとしました。私はそんな母に「もうがんばらなくてもいいよ。楽になっていいんだよ」と語りかけました。それは私の本心でしたが、意識もなくなり大部分の身体機能が壊れてもなお生きようとする生命体としての母の姿も強烈なものでした。母がやっと息を引き取った時、私は「よくがんばったね。安心して休んでいいよ」と母の頭をなでてやりました。
 高齢になると死を比較的穏やかに受け入れるようになると言う人もいますが、母や父をみていると、人それぞれだと思います。父は「別な世界から自分を呼ぶ人がいたので、怖くて逃げた」という夢を、高齢になって何度も見てます。また親しい知人に「自分はいつ死んでもおかしくない年齢になっているが、それは正直とても怖いことなのです」と話しています。このように死を受け入れることは、年齢を問わず人間にとってとても大変なのだということを、あらためて感じさせられたのです。

〇安心して死ぬということ
 何人もの人から「お母さんを亡くされて悲しかったでしょうね」と言われました。しかし私は母が死んで悲しいという感情は起きませんでした。涙も出ませんでした。当事者として気が張っていたせいもあったでしょうが、それよりどこかほっとした感覚でした。それは私の妻も同じだったと思います。特に妻は、この数年間自分の体調を大きく崩しながら両親の世話を献身的にしてくれました。「悔いが残らないように精一杯やってあげたい」と常々話していた妻でしたが、母の入院時はもう心身の限界を超えた状況でした。看病や介護で疲れ切っていた私たち夫婦は、母が入院後短期間で亡くなったことに救われたのかもしれません。つまり人の死をめぐっては、深い悲しみややり切れない思いに満ちた死もあれば、最も身近な者がほっとする死もあるのだということに気づかされました
 こんな時『チベットの死者の書』を思い出します。それはチベット仏教の経典で、死を迎えようとしている人の耳元で僧が語り聞かせる「死後の魂の導きの書」です。その基本的なメッセージは「誰も安心して死んでいいのだよ」ということです。私は何と温かくやさしい姿勢だろうと思いますし、母にも伝えたかったことです。そしてそれは、それを聴いている家族や友人たちに対して「安心して死んでいいのだから、苦しみや悲しみを抱えていても安心して生きていいのだよ」という悲しみのメッセージでもあるのです。

〇死を自覚して日常を生きること
 昔の人々は死を直視し、死ぬことから生きることを学ぼうとしました。人間には必ず死が訪れること、しかもいつ死ぬかわからないことを自覚した時、本当に大切なことが見えてくるはずだと。これは老いることについても言えると思います。社会的な地位や評価、収入や外見など、私たちは自分と他人を比較して一喜一憂します。学歴や経歴や家柄にこだわる人もいます。確かにそれらが実際の生活に影響するので、生きる苦しみの原因となるのですが、死や老いの前では、それは何の役にも立たないことを思い知らされます。
 自己理解の実習で「あと3か月しか生きられないとしたら何をしたいですか」という問いかけがあります。
毎日を生きることで精一杯の私たちにとって、死ぬことの自覚は不思議な感覚をもたらします。「自分は結局何を大切にしたいのだろうか、大事なことを見失ってはいないだろうか」と。それは、自分の歩んできた人生へのふり返りと今の生活状態や人間関係への見つめを、次元の違う視点でさせてくれます。

〇互いに助け合って生きること
 老いていく人の介護の大変さは、母の死後父と同居して本当に実感しました。もっと大変な人がいると思うにしても、私たち夫婦は心身共に疲れを蓄積していきました。そんな中で大切なことも見えてきました。一つは介護当事者の関係性です。自覚して夫婦が助け合うこと。特に夫が、家事や介護の中心にならざるを得ない妻と、一緒に悩み一緒に行動すること。仕事に逃げず、家族と歩むエネルギーを家庭に持ち帰ること。必要な時は外部の非難から家族を守ること。そのようにして苦しい現実に目をつぶらずしっかり味わうことに努力すれば、それを引き受けて生きていこうという腹構えが静かに湧いてくるものです。老人介護は「解決する」など簡単に言えない重たい現実だからこそ、その重みを共に背負う関係がなければ当事者はつぶれてしまうこともわかりました。
 二つ目は、介護者をサポートする姿勢です。私が「どうしたらよいものでしょうか」と誰かに嘆いた時、何かアドバイスや励ましを求めているのではないのです。そう言わざるを得ない思いや事態をわかってほしい、つまり「聴いてほしい」のです。また介護者にはねぎらいの言葉が必要です。介護に限りませんが、限界状況でがんばっている人に対しては、ねぎらいの言葉を欠いた評価やアドバイスは心に突きささる刃になります。ですから職場でも家庭でも、お互いの生きる世界や思いに真剣に耳を傾け、理解し合い支え合う関係こそが力になると思います。最近私は、介護者へのサポートシステムを充実させるという次元で、当センターが地域に何か役立てないだろうかと考え始めています。
                  
                     (2003年 2月 メンタル・ケア ネットワークに掲載)  






 

ボビー・バレンタインの言葉

 プロ野球に詳しい人なら、元ロッテ監督のボビー・バレンタインをご存知の方も多いだろう。彼はアメリカ大リーグの監督としても手腕を発揮した。そのバレンタイン監督が、先日NHKBS-TVで「奇跡のレッスン」という番組に登場した。彼が指導するのは、千葉県松戸市のどう見ても強そうではない少年野球チーム。監督に与えられた時間は1週間。その最終日に、全国大会に出場している強豪チームと試合をするという設定である。しかし、この見え透いたシナリオを、バレンタインはさして気にしていないのである。
 百戦錬磨のバレンタインは、野球の守備面でも、打撃面でも、きわめて分かりやすく子どもたちを指導していく。しかし彼の真骨頂は、技術面の指導よりも、むしろ子どもたちが自分自身の可能性を強く信じることができるようになる指導法にある。

 バレンタインが繰り返し語った言葉を紹介しよう。
◇「経験は教えられない」
 バレンタインは「失敗を恐れるな」と何度でも言う。むしろ三振しようが捕球に失敗しようが、そこに向けられた「努力」と「チャレンジ」を大切にする。人は経験を通して学んでいく。たとえ失敗してもその経験は宝物。その経験を誰かが教えることはできない。だから勇気を持った子供たちのプレーには心からの拍手を送ろう。たとえそれが失敗であっても。

◇「なぜ失敗を恐れると思いますか」
 これは親たちに向けられた言葉。バレンタインは言う。「それは、子どもがあなた(親)をがっかりさせたくないからです」「それはあなたを失望させたくないからです」。子どもは最も愛する親を失望させたくないのだ。自分を最も愛してくれている人をがっかりさせたくないのだ。私はこの言葉に感動した。バレンタインは、失敗を恐れるのは「よく見られたいからだ」「叱られたくないからだ」とは決して言わない。
 「お父さん、お母さん、子どもはあなたを愛している。だから勇気ある失敗をほめてください。がっかりしていない。失望していない。むしろ勇気をもらっていると。」親たちの感動している表情が映し出された。実はこれが「奇跡のレッスン」だったかもしれない。
 さて、1週間後の強豪との試合はどうなったか。2試合して、1試合目はぼろ負け。相手が強すぎる。しかしバレンタインは子どもたちを集めて言う。「失敗を恐れるな。目に見えてうまくなっている」。2試合目はなんと最終回にチームは追いつき、7対7で引き分ける。
 泣きじゃくる子どもたちを抱きしめながら、バレンタインは語る。「君たちの勇気を忘れないよ」。

                   ※「栃木いのちの電話」の機関紙「絆」 2016年6月号に掲載






 

 

「私の物語」を聴きながら

 最近、久方ぶりに生まれたての赤ん坊を抱く機会に恵まれました。小さな体を抱きあげた時に、その頼りなさと、無防備さに胸を突かれました。何と頼りなげで、なんと無防備なのでしょう。赤ん坊は人によって保護されなければ、いのちを落としてしまいます。いのちの行方は、全くこの世の人にゆだねられているのです。
そこには、世界が自分を生かしてくれるという信頼があるように思われます。
 私たちは、いのちを与えられ、この世に送り出され、その人生を始めます。時代も、国も親も選べない、受身としての生がそこにあります。そう考えると、私が、ここにこうして存在していることの不思議さをしみじみと感じます。自分が今日まで歩んでこられたのは、たくさんの力に助けられてきたからに違いないのです。

 私たちは、生まれた家で、そこに在る文化や風土を体験し、心の内に自分の軸となるものを育み始めます。これを内なる文化といってもよいのではないでしょうか。成長するにつれて、私たちの生きる世界はずいぶん広がりと、深さと多様性をもつようになります。そして、護られた世界から徐々に抜け出して、見知らぬ世界にふれていくようになります。例えば、子供の頃の小さな異文化体験を思い出します。親戚の家に初めて泊まった時の体験、家に漂う気配や空気感の違い、そこに住む人の関わり方、食事や作法、調度品、などなど、訪問者として行くと皆珍しく感じるものばかりでした。ちょっとワクワクする感じがしたことも思い出します。
 こうして異質なものと出会いながら、自分自身を少しずつ育てていくことになるのですが、異質なものとの出会いは、決して楽しいことばかりではありません。時には傷つき、戸惑うことも沢山あります。特に社会人
になると、人はそれまでより飛躍的に広い世界と出会います。その中で内なる文化を確かめつつ、外なる文化を取り入れ、バランスをとることを学んでいかなければなりません。
 この内的作業は、誰かに代わってもらうことは不可能で、どんなに拙なくても自分自身の手で挌闘しながら行わなくてはなりません。代替え出来ない厳しい側面があります。これは誰もが独自のやり方で苦労しながら
経験していることなのです。人生は思ったほど単純でなく、複雑さに満ちています。そうした中にあって、何と難しい作業を私たちは日々やり遂げているのでしょうか。この事実を私はカウンセリングの営みの中で発見しました。

 記憶があいまいなのですが、子供のころに見た番組で「人に歴史あり」という番組がありました。毎回、市居の人が登場し、司会者がインタビューしながらその方の人生を辿るという番組だったと思います。有名な人や功成り遂げた人ではなく、普通に暮らしている人に光があてられていたのが印象に残っています。年月を経るにつれ「人に歴史あり」の持つ深い意味について思いを巡らすことが多くなってきました。

 私たちはこころの内に、皆それぞれの物語を持っています。『私の物語』を紡ぎながら生きているのです。人は内なる物語については、そうやすやすとは語りません。こころの内に大切にしまわれているのです。でも、私たちは「私の物語」を語りたい、受け止めてほしいとの切なる願いを持っています。
 カウンセリングの場では、、この貴重な物語を聴かせて頂いているのです。人は苦しい時、揺らいでいるときにカウンセリングにおいでになります。語られる物語にじっと耳を傾けていると、人は様々な試練に遭いながら、何と豊かで多彩な人生を生きているのだろうかということを強く感じます。
 カウンセリングの中で語り手は、物語を語りながら自分を確かめ、こころを整え、バランスを見つける作業をしていきます。この作業の中で再び歩みを始める力を取り戻していかれるのです。こうした姿を目にするときに、私たちの中には生きる力が備わっているのだということをつくづく感じさせられるのです。そして、語ることには、人を癒す力があるのだと感じます。
 この、物語の持つ人を癒す力は、語り手だけでなく、聴き手をも癒す力を持っています。語り手の「私の物語」にふれながら、聴き手の私もまた、「私の物語」を歩んで行く勇気を頂いているのです。日々の暮らしの中で、ともすれば硬くなり、生気を失いがちな私のこころは「あなたの物語」にふれることで、生気を取り戻すのです。あなたが挌闘しながら歩いておられる、その姿に助けられているのです。私たちは一人で歩くけれど、独りぼっちではないのです。違っていても通じるものがあるのです。人にふれることで私たちは生きられるのです。

 世界は変化に富んでいます。この世に送りだされたばかりの小さな赤ん坊が、これから先、どんな物語を紡ぎ生きていくことになるのでしょうか。願わくば、自分への信頼感を育くみ、生まれ落ちた時のあの「世界への信頼感」を失わないで歩んでいってほしいと思います。私たちも、そうした願いを持った人たちによってここまで歩んでこられたのですから。





 

本当の自分に出会う

 もっと若かった頃、結婚し子育てに追われていた頃の私は、家事をしっかりこなし、育児をちゃんとし、さらに当時は夫の両親と同居していたため良い嫁を頑張って…とやっているうちに、どうにもならなくなっていきました。ふと涙がこぼれ、子どもたちへ笑顔が向けられなくなることもあり、自分は母親や妻をする資格はないのではとさえ思いました。
 いよいよ追いつめられたその時、「私が一番大切にしたいものは何だったっけ?そうだ!それは子どもたちの笑顔だ!」と。周りからどう思われるかばかりに気を取られていた自分にハッと気づくことができた瞬間でした。「一番大事な子どもたちが安心して伸び伸びと過ごせること。子どもたちの生き生きした笑顔が見られるような暮らしをしよう。他のことは、誰がどう思おうと気にするのをやめよう。子どもたちの笑顔が消えてしまったら、他の何を得られたたとしても意味がない。あれもこれもではなく、まずは私にとって一番かけがえのないものを大切にしよう」と。
 生きる指針となる「本当の自分」を見つけることができました。その後またフラフラとと見失いそうになったときも、我に戻ることができるようになったように思います。
 私たちは、仕事でもノルマに追われたり、職場の求めるものに応じたり、周りの評価を気にしたりしながら、なんとか毎日頑張って、でも頑張っているのにうまくいかなくて追いつめられたりすることもあります。勉強でもスポーツでも、頑張って順位が上がって、そのうち周りから期待されてプレッシャーになったり、思うようにいかなくて苦しくなったりしてしまうこともあります。ボロボロになって、自信を失って、あれ?何のために自分は頑張っていたのだっけ?本当に自分がしたいことは何だったのだろう?日々何かに追われていると、私たち人間はどうも大事なことを見失いやすいのかもしれません。
 そして、いよいよ苦しくなったとき、深く悩んだとき、それは、本当の自分に出会うチャンスなのかもしれないと、カウンセリングの仕事をしていると感じます。どう生きていけばいいのか?自分はやっていけるのか?何のために生きいるのか?そんな、とても心細い、もがき苦しむような時間をカウンセラーとして寄り添い、その方の力を信じて見守っていくと、次第に見失っていた自分を取り戻していかれるように思います。
 心の病で休職された学校の先生が復帰される時、「以前は生徒の学力や部活の指導で少しでもよい成績をと頑張ってきた。それも大切だけれど、今度戻ったら生徒の心に寄り添える先生になりたい。こんな苦しみがあると分かったから。それにそんな先生になりたくて教師になったのだから」とおっしゃいました。本当の自分に出会われたのだなと思いました。

 茨城新聞「心の時代へ」 2016年11月20日掲載




 

野良猫ひめちゃん

 まだ空気が冷たく、もう少しで桜の季節になる頃、真っ暗な中、小さな雑草の陰から何かがこちらを見ているのに気づきました。そぉーっと近づいても動かないので、その場で静かにしゃがんでみました。すると、警戒しながらゆっくりと、少しずつ近づいてきました。手をだすと逃げてしまうと思ったので、じーっと静かにしていました。右に歩いては止まり、左に歩いては止まり、こちらを気にしながら私のうしろへ通り過ぎて行きました。ちらっと後ろをみると、小さな猫ちゃんが私の身体のすぐ後ろに背中合わせにちょこんと座っていました。「寒いね~」と身体をなでてみると、逃げずに足元にすり寄ってきました。人懐こいコでした。それがひめちゃんとの出会いでした。
 それからひめちゃんを近所でよくみかけるようになりました。とても人懐こいのでどこかの飼猫だろうと思っていました。「お名前は?」「おうちは?」と聞いても童謡「犬のお巡りさん」同様、何を聞いても「ニャーン♪」なので、勝手に「ひめちゃん」と呼ぶようになりました。たまに会うと「今日は寒かったね~。何してたの~?」などと話しかけるのが、楽しみになっていきました。
 そんな日々を過ごしていましたが、ひめちゃんのお腹が少しずつ大きくなっていきました。数日見かけない日があったかと思うと、次に見かけたときは、ホッソリとしていました。「赤ちゃん生まれたの?どこにいるの?」と聞いても、いつもひめちゃん一匹で、子猫を見かけることはありませんでした。


 夏も終わりごろ、ひめちゃんのお腹はまた大きくなってきました。どこかの飼猫なのか、妊娠を繰り返しているようなので野良猫なら避妊手術をと考え何度か動物病院へ連れていこうとしましたが、必死に抵抗され逃げられてしまっていた矢先でした。大きなお腹を抱え、近所の野良猫たちと出くわすと、いつも激しくけんかをしていました。「何かあったら、逃げてくるんだよ」と会うたび伝えました。その言葉が伝わっていたのかどうか、ある晩、爪を立て玄関扉をガリガリし、必死でニャアニャア鳴くのです。知っているだけで二度出産している様子だったので、出産場所を探しているのだと感じました。「うちは日中不在だから無理なんだぁ・・・」と伝えましたが、ひめちゃんは、「助けてー!」と必死に訴えてきました。あまりの切羽詰まった声に思わず玄関を開けると、急いで安全そうな押入れに入り込み、数時間後には静かに子猫が誕生していました。


 それから数日後、家族の協力のもと、妹宅にひめちゃん一家はお引越しすることになり、ひめちゃんの家猫生活が始まりました。妹宅には4歳の先住猫(♀)がいます。野良だったひめちゃんは、子猫がいることもあり「シャーッ!」と歯をむき出し怖い顔で先住猫にも人にも威嚇しました。食べ過ぎるほど何でもよく食べ、夕飯のときはクンクン鼻を動かしおかずをねだり、おかずの残りを知らない間に盗み食いし、魚はきれいに尻尾だけ残し頭も骨もバリバリと食べるなど野良猫魂全開。ネコ用トイレはなかなか慣れず、一日中トイレを我慢したり、砂を掻き出す勢いが強過ぎてあたり一面に砂をまき散らしたり、部屋の真ん中までトイレが移動してしまったり。やることなすことワイルドです。それでも授乳や、子猫の身体をていねいに舐めてやるなど、慣れない環境の中で一生懸命育児に励んでいました。3.5kgほどの小さなひめちゃんのがんばっている姿をみると、協力せずにはいられない気持ちになりました。
 驚いた のは、ひめちゃんの観察力です。先住猫と仲が悪いため、夜間はひめちゃん一家のいる部屋のドアを閉じていました。ドアは、取っ手を下に下げると開くような形で、ひめちゃんは人がやるのを何日もじーっと見ていました。ある朝、「ドシン!」という大きな音とともに、部屋の中にいたはずのひめちゃん一家がゾロゾロと部屋から出てきたのです!?部屋に閉じ込められるのがとても嫌いなひめちゃんは、取っ手のところまで飛び上り、取っ手を体重で押し下げて自分でドアを開けてしまうことを覚えました。また、トイレの使い方も、先住猫がトイレに入っている様子をじーっと何度も見ていました。「あんなに見られていたらトイレ入りにくいよね~!」と家族で笑っていたのですが、「あぁいう風にやるんだな~!」と学んだのか、先住猫がやるように、ほとんど砂を掘らずに用を済ませ、トイレ後はこれまた先住猫がやるように、砂→トイレの側面→下に敷いてある新聞紙の順にカサコソと砂を掘るしぐさをするようになりました。家猫ルールを真似しているのです。小さな小さな頭で、よく考えるねぇと家族で感心しました。


 獣医さんの話では、推定2歳と思われる小さな身体のひめちゃん。これまでは一体どんな毎日を過ごしていたのでしょう・・・ 生後1~2年で、自分でエサを探し、雨風をしのげる場所をみつけ、そして、困ったときには「助けて!」と必死で訴え、子猫たちとねずみのおもちゃを本気で追いかけ無邪気に遊び・・・ 大切なことを日々行動で教えられている気がします。
 まだまだ問題山積みの日々ですが、周りの方が「へえ~」「そうなの~」と私の話に耳を傾けてくれ、時には一緒に「う~ん、どうしたらいいかね~・・・」と考えてくれたことが大きな支えになりました。
 元野良猫ひめちゃんは、先住猫と女同士のバトルが続いていますが、やんちゃな子猫たちと慣れない家猫生活を送っています。




 

球根にこもる思い

 昨年の暮れの出来事で、心に残っていることがあります。研修である事業所に伺った時のことです。研修が終わり責任者の方とお話をしていたのですが、帰り際に「よかったらお持ちください」とチューリップの球根を手渡されたのです。球根は一つ一つが丁寧にラッピングされていて、まるで色とりどりのキャンディのようでした。お話を伺うと、秋にご自身でたくさんの球根を用意し、一つずつラッピングし、来訪者にプレゼントされているということでした。
 「球根の花の色は分からないので、何色が咲くかはお楽しみです」と言って、残り少なくなった球根を下さったのです。思いがけない贈り物を頂き幸せな気持ちになりました。
 家に帰り、早速、頂いた球根を庭に植えました。以来時々水をやり、芽の出具合を確かめるのが楽しみになっています。黒々とした土から小さな芽が出て、葉がぐんぐん伸び、やがてつぼみができて、花が開く、今日はどんなかしら?というワクワクした感じを味わえるのはとても幸せです。私は植物に接するたびに、いつも不思議に思います。球根にしろ、種にしろ、あんな小さなものから、芽がでて、見事な花を咲かせ、実を付けるのですから。庭に植えた球根は、寒さに耐えてどんな花を咲かせることでしょうか。
 贈り物は頂くのもうれしいのですが、何を贈ろうかと思案し準備している時にも心が穏やかになるものです。球根を下さったHさんは、たくさんの支えを必要とする子供たちに付き合うお仕事をされておられます。子どもたちと、子どもたちを支える親御さんや、スタッフの苦労と喜びをよく知っておられます。責任ある立場で忙しい仕事の合間を縫って、手渡す相手のことを思いながらコツコツとラッピングを続けられたことでしょう。そして、球根を手渡す時に、お一人お一人に、これまでの道のりへのねぎらいとともに、これからも一緒に歩いていきましょうというお気持ちを託されたに違いありません。
 人も植物も育ちには時間が要ります。「心を尽くして待つこと」の楽しみを改めて思い起こさせていただきました。Hさん、ありがとうございます。

 茨城新聞「心の時代へ」 2017年2月27日掲載




 

夫がうつ病になったとき。振り返って思うこと。

 当時、夫は10年以上勤めた職場から突然異動になりました。異動から2か月経った頃、夫は、夜は不眠、朝の出勤前は腹痛、下痢、吐き気、嘔吐という症状に襲われるようになりました。夫自身も私も混乱していましたが、とりあえず、という思いで心療内科へ通院しました。待合室で、簡単な問診票の記入に何十分もかかっている夫の姿を見て、初めて夫がいかに思考力や判断力が衰えているのか気づき、唖然としました。「こんな状態で仕事ができるわけない」と否応なく感じました。医者からはうつ病の診断が出て、2か月の休職が必要だと言われました。
 休職手続きは電話や書類の郵送で済みましたが、うつ状態の夫にとってはそれを行うことも大変で、体力、気力を消耗しながら、という様子でした。それでも、出勤前に出ていた症状がなくなると、「ゴロゴロしていたらダメ人間になった気がする」と言って、庭の手入れや畑仕事等していました。夫は「早く復職したい」と言っていて、毎日が出勤するためのコンディションを整えるような、準備運動をしているような感じでした。夫の休養を見守る立場の私も、「いつまで休むのだろう?休んでいたら治るのだろうか?治らなかったら?生活費は?」等漠然とした不安が頭の中でグルグル回ってしまい、単純に「ゆっくり休んでね」とは思えていませんでした。
 2週間後の通院で医者から「全く休めていない。それでは治らない。」と指摘されました。医者の言葉にショックを受けつつも、そこで初めて「ゆっくり休もう」「ゆっくり休んでもらおう」という覚悟が、それぞれにできたように思います。先のことを考えるのを止め、その日一日をゆっくり過ごすことだけを意識しました。夫がゴロゴロしていると「休めていそうだ」と安心したし、そのうちテレビを見て笑うようになった夫を見て、「ああ、こうやって大きな声で笑う人だった」と思うこともありました。そのように日常生活の中で少しずつ、夫の回復を実感できるようになっていきました。

 そして約3か月の休職後、会社の復職制度を使っての出勤が始まりました。最初は1日3時間の勤務でしたが、それだけでも大変でした。再び出勤前に下痢や嘔吐の症状がでましたし、会社の駐車場についても、車から降りて会社に入る、ということができない時もありました。辛そうな夫の様子を見て、私もどうしたら良いのかわかりませんでした。「せっかくここまできたのだから、何とか乗り越えてほしい」という気持ちと、「もう十分頑張ったからやめていいよ」という気持ちが交互に押し寄せ、強い葛藤がありました。ある日耐えきれなくなった私は、泣いてしまいながら、その揺れる気持ちを夫に伝えました。夫は黙って聞いていましたが、何か吹っ切れたのかもしれません。翌日から症状が和らぎはじめ、一歩一歩階段を上るように出勤できるようになっていきました。

 それまで、私はうつ病の夫に余計な心配をかけてはいけないと、気丈に振る舞っていた部分があったと思います。でも、そのために本音を言えないでいてストレスが溜まってしまうということもありました。夫がうつ病になった時、「ネガティブな気持ちを言葉で表現することが苦手な人なのだ」と思いましたが、実は私もそうだったと、後になって気づきました。日頃からお互いもっと素直に、自分の弱さや小ささも見せ合い、それを支え合いながら暮らしていくこと、私たち夫婦にはそれが大切なのだということは、この経験から学んだ1つです。

 夫は復職から2年後にうつ病を再発しました。その時は夫婦ともに「もうあんな辛い思いはしなくていいよね」と言い、すぐに退職を決めました。復職したことを後悔しているのではなく、「あの時あれだけ頑張ったから、もう悔いはない」という気持ちでした。不思議なもので、退職を決めた直後に転職の話が舞い込み、現在もその転職先で働いています。うつ病の再発率等を考えると、不安になる時もあります。けれども、「そうなったとしても、何とかなるだろうし、また何か学ぶことがあるのだろう」と思います。そして、「そのように思う、考える、生き方をしていきたい」ということも、この経験をを通して意識するようになりました。
 この原稿を書くにあたり、当時のことを思い出して苦しくなったり、今更気づいて悔やむこともありました。しかしそれよりも、今後自分が生きていく上で大切にしていきたいことに気づくことができ、良かったと思っています。



 

土砂崩れの被害にあって

 今から3年半前のことです。土砂崩れは台風の大雨によるものでした。早朝、それは本当に突然、前触れもなく起こりました。「ゴゴゴー」という聞いたこともないような大きな音、地響きと同時に停電になったのを覚えています。反射的に音の方を振り返った私の目に飛び込んできたのは、壁を突き破って入り込んできた大量の土砂と、その土砂に流され、押しつぶされた冷蔵庫や食器棚でした。それが土砂や家具だということに気づくまでに、いったい何秒かかったでしょう。次の瞬間耳に届いた父の「土砂崩れだ!」という声に初めて状況を理解しました。それと同時に、台所(山側)に居た母と一歳の次女の姿がみえないことに気づき、悲鳴をあげました。幸運としか言えません。押しつぶされた流し台と家具の隙間で母が娘を抱いて守ってくれていました。そして、声を頼りに近づいた父に、母が狭い隙間から娘を託してくれました。母自身は出られるスペースがなく、20分後に駆け付けた救急隊によって助け出されました。自宅は半壊しましたが、娘は無傷、母も軽い打撲で済んだことは奇跡とも思えるような状態でした。

 土砂崩れに巻き込まれた次女は当時まだ1歳3か月でしたから、自分の身に起きたことは理解していないようでした。痛い思いをせず、暗い中で閉じ込められてる間も、母に抱かれて声をかけ続けてもらったことが良かったのでしょう、その後トラウマ反応と思われる程の心配な様子は見られませんでした。次女よりも情緒不安定になったのは、当時3歳の長女でした。長女は1人で寝室で眠っていました。土砂崩れの音と振動で目を覚まし、部屋の窓ガラスが割れ、雨風と一緒に大きな竹が部屋に入り込んでる状況を目にしていました。その後も救急隊や消防、テレビや新聞の取材、近所の人たちなどが集まる非常事態を見聞きしていました。その時は怖がったり泣いたりすることなく、大人しくしていたのですが、今思えば、土砂崩れという外傷(トラウマ)体験を受け止められず、呆然としていたのだと思います。1週間過ぎた頃から、些細なことで泣き出したり、抱っこをせがむことが増えました。また、毎晩布団に入ると土砂崩れの時のことを話し出しました。「あの時、ママ泣いてたよね。」「おうち、壊れちゃったね。」「大きな音がしたよ。それで目が覚めたの。」「私のおもちゃ、泥だらけになってたよ。」等、ぽつぽつと思い出したように話しました。私もそれに付き合い、ママも怖かったこと、でも、誰も大けがをせずに済んで良かったと思っていること等、一緒に話しました。1か月が過ぎた頃には仮設の台所や居間もできて生活自体が落ち着いたことも重なり、それらの様子は徐々に無くなっていきました。

 一番トラウマ反応が強く出たのは、母でした。1か月が過ぎたころから、悪夢を見るようになりました。夢の中で土砂崩れが再現され、身体が押し潰される様な圧迫感を体験、冷や汗や動悸があり、全身に力が入っているところではっと目が覚めるということが何度もあったそうです
 半年から1年の間には、母程ではありませんでしたが、父や夫、私自身も土砂崩れに関する夢をみたり、大雨の日には寝付けないということが何度もありました。布団に入って大雨や強風の音を聞いていると、今にもあの土砂崩れの音、地響きが聞こえてきそうに思えました。あの時の光景や感情が鮮明によみがえり、布団に横になっているということができませんでした。
 このように、家族それぞれが軽いトラウマ反応と思われる経験をしました。それでも重いトラウマ反応、PTSDにならずに済んだのには、いくつか要因があったと思います。

 ① 重傷者、死亡者が出なかった。
 ② 生活が大きく変わらなかった。
  (自宅外での避難生活が短かった。他の土地に引っ越しすることがなかった等。)
 ③ 気にかけてくれる人がいる、という実感があった。
  (我が家だけが非日常のままでいることから、社会、周囲から取り残されていくような孤独感、焦燥感を否応なく感じた。そのような中、訪ねてきてくれたり、温かい声をかけてくれる等、人の優しさに心がほっと和らいだことを覚えている。)
 ④ 家族間で土砂崩れやそれに関する話が沢山でき、ピアカウンセリングの効果があった。
 (お互い、あの瞬間はどこで何をしていたのか、どう動いたのか、当時のパニック状態をそれぞれの記憶をまとめることで理解、整理できた。各々のトラウマ反応についてもくり返し、共感的に話ができた。)

 このように、いくつもの要因が重なり、私たち家族はこの被害、トラウマ反応を乗り越えることができました。大変なことも沢山ありましたが、家族の大切さ、人の優しさ、普通の暮らしがいかに幸せであるか等をあらためて感じ、これからの人生でそれらを大切にしていきたいと強く意識できたことは大きな意味があったと思います。






 
 

ある日

 ある日、鼻血が止まらなくなった。鼻血といっても大量に出たわけではなく、鼻水に血が混じるようににじみ出てきた程度である。もちろん鼻をどこかにぶつけたわけでもなく、原因は思い当たらなかった。とりあえずティッシュで押さえ止まるのを待っていた。周囲に気づかれないように拭きながら仕事を続けていたが、一向に止まらなかった。仕方なくついに医者に行くことを決心し、職場から抜け出した。「どこも悪いところはみあたりませんね」と鼻の中を映し出したモニターを見ながら医師は言った。そして「ストレスで鼻血が出ることもありますから」と続けた。そう言われれば当時の私は複数の仕事を抱え、バタバタとした日々を過ごしていた。仕事は担当者が完結させるのが基本であり代役はいない。なんとかしなければというプレッシャーがストレスとなっていたのかもしれない。医師の診察を受け、ほどなく鼻血は止まった。
 カウンセリングの基本は「傾聴」である。カウンセラーはひたすら話を聴くことに徹し、決して上から目線のアドバイスはしない。テレビではよくカウンセラーのような人が出てきて、ここが悪い、これを直しなさいとアドバイスする人生相談の番組がある。しかし、それは所詮他人からの指示である。上手くいくこともあるかもしれないが、失敗したときは「言われた通りにしたのに、何でうまくいかないのだ」とますます悩みが深くなることとなる。大切なことは悩みながらも自分で結論を出すことであり、カウンセラーはその過程に付き添い、時には背中を押す役割を果たしてくれる。
 欧米ではカウンセリングが生活に定着し、誰でも気軽にカウンセリングを受けにいくという。壊れる前にメンテナンスをするのが大切だという考え方である。日本ではこころの病を軽くみる傾向があり、症状が重くなってから医療機関に行く人が多いように感じる。早めにカウンセリングを受けておけばよかったのにと思うことが多々ある。もっとも私も当時はカウンセリングの存在を知らなかった。
 あの日、鼻血は私にこころの疲れを教えてくれた。もしカウンセリングに行っていたら、きっとカウンセラーはこう声をかけてくれたと思う。「よくここまでいらっしゃいましたね。よくがんばりましたね」
 皆さんも周りにいませんか、鼻血が止まらない人。お待ちしています。





 

「うまくやれないなあ」と落ち込んだときは…

 皆さんは、ご自分の事を要領の良いタイプだと思いますか?それとも、要領が悪くて・・・と思っておられますか?どんな人でも、時には「なんで自分は出来ないんだろう」とか「才能ないのかも」など、うまくやれなくて悩むことがあるかと思います。
 世の中は、スピードの時代。より早く、効率的に。なんでも器用にこなせて即戦力。常に成果を評価され、比較され・・・と、あちこちで聞こえてくる言葉を書いていると、キューツと心が何かに挟まれて押しつぶされそうになります。

 だいぶ前になりますが、2つ前のロンドンオリンピックの頃だったかと思います。男子体操の金メダリスト内村航平選手のことをTVで特集していました。
 ご両親も体操選手で、体操教室を地元でやっておられるとのこと。そこで幼い頃から体操を始めた内村選手ですが、最初の課題である鉄棒の逆上がりで悪戦苦闘。周りの子ども達が次々とできるようになっていく中で、一人鉄棒に向かって両足を上げてはバタン、なかなかできるようになりません。他の子ども達が、トランポリンや平均台へと進んでいく中で、毎日毎日一人鉄棒に向かう航平くん。 お母さんも、心配しながら横目で見ていましたが、さすがに助け舟を出してやらないといけないかと思った頃、クルリと回ることができたのです。
 この最初の経験が、その後様々な難しい技を身につけて行く時に、「どんなに難しくても、あきらめずに、ずっと練習を続けていれば、必ずできる日が来る」という信念となって、頑張り続ける原動力になったと言います。他の選手がなかなかできない凄い技の数々を、内村選手が身につけることができた秘密が、この最初の「挫折」にあったのです。
 もしも、最初の逆上がりが簡単にできるようになっていたらどうだったでしょう?逆上がりが簡単にできても、いつか難しいと感じる壁にぶつかったでしょう。そのとき、今までは何でも簡単にできてきたのに、今度はできないと焦り、「自分には才能がないのだ」とがっかりして体操から離れていったかもしれません。そんな風に感じて、体操から離れていった選手は、たくさんいるのではないかと思います。
 運動神経がいい人、頭がいい人、要領がいい人という言葉があります。そういう人はなんでもスラスラできてうらやましいなあと思った事はないですか?しかし、スラスラできてしまう事ばかりがよいとは限らないのだなあと思いました。

 内村選手の話以外にも、一流料亭の板前さんや有名パティシエの方からも、「修行時代は要領が悪くて苦労しました」という話がよく出てきます。周りがどんどん先輩から教わったことができるようになっていく中で、自分だけうまくいかない。一人残ってなんども失敗しながら試行錯誤の中で一つ一つ身につけて行く。そして、一流と呼ばれる人たちは、教えられたことができるだけでなく、誰もやったことのないオリジナリティが求められるわけですが、その壁を乗り越えるのは、ものすごく大変なことなのでしょう。それまで、順調にきた人にとっては、経験のない苦労です。しかし、要領が悪くてスタートから苦労してきた人は、簡単に諦めない。試行錯誤しながらその壁を乗り越えていく。これまでも、スラスラできてきたわけではないのですから。
 新入生や、就職したてのフレッシャーズの皆さん、どうかスタートでつまずいたと感じても、焦らないで欲しいなあと思います。また、なんだか自分は人よりうまくやれないなあと劣等感にさいなまれた時、自分はダメな人間だと決めつけないで欲しいなあと思います。
 そして、周りの人たちも、暖かく見守る目を持つことが、とても大切かと思います。いくらスピードが求められる時代になったとはいえ、人間はそんなに器用な生き物ではないと感じます。慣れるのに時間がかかったり、苦手なことがあったり、人間誰しも欠点を持っているのです。わからないことや、失敗を隠そうとしてしまうのではなく、安心して伝えることのできるように。それぞれの人が、自分のペースで成長していくことを、励ましながら見守る環境が大切かと思います。
 すぐに結果が出ないからといってダメだとは限りません。その苦労がのちに生きてくることもあるのだなあと思います。私たちは、すぐできることを求めたり、周りと比較したり、目先の成績に振り回されたりしがちですが、自分を信じて焦らず取り組んで行けたら良いなあと思います。



 

「あなた」に触れる喜び

 ここ数年、市町村で傾聴ボランティアが盛んになっています。人はなぜ、傾聴ボランティアに引かれるのでしょうか。
 ある学会で言語学者の話を聞いたことがあります。はるか昔、人類がその歩みを始めた頃、言葉は川の向こうにいる人への叫び、呼び掛けとして生まれた、と。言葉は呼び掛ける私たちがいて、それを受け止めてくれる相手がいて紡がれていきます。私たちは生まれた時から世界に呼び掛け、その呼び掛けに応えてくれる存在を求め続けています。そして、この呼び掛けは生涯ずっと続いていくように思えるのです。
 こんなことを感じるのは、日々のカウンセリングの中で、「私」という存在を受け止めてほしいという切なる叫びを感じることがしばしばあるからです。しっかりと受け止められる体験は人を根底から支えます。また受け止めようとする人も「あなた」に触れることが自分自身の喜びとなるのです。傾聴ボランティアに関心を持ち活動を続けている方は、その喜びを知っていると思います。
 今、家族の関係もライフスタイルも以前とは比べ物にならないくらい変化しています。
 家族や友人であっても、お互いに忙しくゆっくりと語り合う時間が減ってきているように思います。この辺で人間関係の原点に立ち戻って互いに語り合い、分かち合い、響き合う関係の持つ豊かさに目を向けてもよいのではないでしょうか。
 カウンセリングの学びは自分自身と出会い、しっかりと自分とつながること、そして大切な人との関係を育てていくことにつながっていきます。この10月から、茨城カウンセリングセンターが主催する「カウンセリング入門講座」が始まります。関心がある方は一緒に学びましょう。皆さまの参加をお待ちしています。

 茨城新聞「心の時代へ」 2017年 9月1日掲載





 

「手紙 ~親愛なる子供たちへ~」

 ひとつの美しい詩を紹介したいと思います。
 美しいというのは、私の魂に美しく響いてきたという意味です。
 もうひとつこの詩に教えられたのは、「静かに語りかけることば」の美しさです。わたしが大切なあなたと共に生きていくために、あなたの心に語りかけるのが、「語りかけることば」です。考えてみれば、誰であれ、生まれて初めて触れたことばは、この「語りかけることば」です。「おう、よしよし」、「だいじょうぶよ、おう、よしよし」。わたしに語りかけられる、やわらかで温かいそのことばには、宇宙の無限のエネルギーがこめられています。

 この詩の成り立ちについてお話ししましょう。
 ある日、一通のメールがひとりの日本人ポルトガル語学者のもとに届きました。そのメールは、発信人不明のポルトガル語で綴られた短い詩でした。そのポルトガル語学者の名前は角智織(すみ・ともお)。彼はこの詩を読んで心打たれました。そして、この作者不詳の原詩を日本語に訳し発表しました。すると、いろいろな人が自分のホームページなどで取り上げ、世界中に様々な言語で広がっていきました。

 この詩は、高齢のお母さんが愛する子供たちに贈った手紙です。しかし、「悲しい事ではないんだ」と語りかけながら、最後まで愛する者たちを守ろうとする深い祈りのことばは、親子の枠を超えたすべての人に向けられているように感じられました。


 ☆☆☆
手紙~親愛なる子供たちへ~

年老いた私が、ある日
今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴紐を結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように 見守って欲しい

あなたと話すとき、同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末を どうか さえぎらずにうなずいて欲しい
あなたにせがまれて 繰り返し読んだ絵本の あたたかな結末は
いつも同じで 私の心を平和にしてくれた

悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように 見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのを嫌がる時には
思い出して欲しい
あなたを追い回し
何度も着替えさせたり
様々な理由をつけて
嫌がるあなたとお風呂に入った
懐かしい日のことを

悲しい事ではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱まり 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない
足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったら
あなたが か弱い足で立ち上がろうと 私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど
私を理解して支えてくれる 心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけで それだけで 私には勇気がわいてくるのです

あなたの人生の始まりに私がしっかり付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい
あなたが生まれてくれたことで 私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って 笑顔で答えたい

私の子供たちへ
愛する子供たちへ

(角川書店出版「手紙~親愛なる子供たちへ~」)
 ☆☆☆





 

新人研修で大切にしていること

 4月は多くの職場に新人が入ってきます。それに伴いそれぞれの職場で新人研修が行われています。茨城カウンセリングセンターでは職場への講師派遣も行なっているため、新人向けのメンタルへルスやコミュニケーション研修の依頼がこの時期たくさんきます。いろいろな職場を訪問して「どんな人が入ったのかな?」と興味を持ちながら2時間前後の研修を行っています。
 その中で私が大切にしていることは、新人同士がお互いに安心できるきっかけを提供することです。コミュニケーションが苦手だったり、人が怖いと言う若者が増えていると聞きます。どう見られるか気になり、人との間に壁を作り、考えすぎてしまうのかもしれません。同期なのに孤立してしまうのはもったいないので、お互いのことを知り合うための演習をします。具体的には「あなたのことが知りたい」と思う気持ちで質問しそれに答える単純なものですが、演習が終わってからの感想を聞くと、「自分と同じところがあって安心した」とか「やっていけそうと思えた」など言う人がいたり、笑顔だったり、肩やお腹の緊張が緩んだり、雰囲気が和んでいるのを感じます。安心できる横のつながりがあると、何かあった時にご飯を食べたり、悩みを聞いてもらったり、励まし合うことができます。新人同士で心のサポーターを築いていってほしいなと思っています。



  

近況雑感

◆例年より春の訪れが早かった今年、残念ながら入学式は葉桜のもとでの記念撮影となりました。駅には真新 しい制服を着た学生や、いかにも新人社員然としたスーツ姿の人々が目につきます。それ以外にも人事異動 などで環境が大きく変わるのがこの季節です。
 こころを張りつめながらも通い続けた4月、GWでその緊張が解けると、一気に疲れが出るのが連休明けで す。皆さんの周囲でも新しい環境になった方がたくさんいらっしゃると思います。ぜひ、目配りをしてあげ て下さい。

◆2018年度の事業案内ができました。
 例年のように、今年も赤い羽根共同募金より助成をいただいて作成させていただきました。「ふるさと納税 」で市町村が返礼品というニンジンで熱心に寄付集めに取り組む一方、なにもお返しのない募金や寄付は細 る一方です。
 遅まきながら当センターも、「センター版寄付金返礼制度」を設けることといたしました。一口一万円ご寄 付いただくとレクチャーコースの講座を2回受講できるというものです。
 レクチャーコースは、毎年10回中4回程度は外部から新しい講師をお招きして開催しております。通年で 出席は難しいが聴講してみたいとお考えだった皆様、ぜひこの制度をご利用してください。



 

あれから

 今年のお正月、実家で何年も手をつけていなかった部屋の片付けをしていると、初代茨城カウンセリングセンター理事長の 大須賀発蔵先生の行っていた講座「東洋の智恵とカウンセリング」(月1回)に出席していたときのノートや先生の文章が掲載された冊子が何冊か出てきた。ふと、そのころを思い出した。
 26歳の初夏、私は茨城カウンセリングセンターへ初めて足を踏み入れた。大学は卒業したものの求人が少ない頃で仕事探しに苦労していた。アルバイトさえ採用されず、家事手伝いをしながら、自分は社会から必要とされていないのではないか…と涙があふれる日もあった。事務の臨時職や、電話受付のアルバイトなどをしながら、自分は何をしたいのかずっと考えていた。ようやくやりたいことがみえてきた。「話を聴ける人になりたい」。そう思いながらも、それを仕事にするとなると経験を求められ、経験がないので仕事へ就けないという堂々巡りの状況だった。まだカウンセリングそのものが今ほど知られていなかった。今は、県内の小中学校には全校配置されているスクールカウンセラーが、調査研究事業という名目で、県内に3人配置されたという時代だった。

 ある講演会で大須賀先生の講演をお聴きし、それから先生の講演の案内を見つけては足を運び、カウンセリングの話や全く知らなかった仏教の教えを易しいことばで教えていただいた。仕事が見つからない…、これからどうしていこう…と数日そのことばかりで頭がいっぱいになり、手にじわーっと汗をかき、身体は緊張し、胸はソワソワと落ち着かず、自分でも身体にまで異変が現れたので「これはまずい」と感じた。「そうだ、大須賀先生に相談してみよう。仕事をさせてもらえないか、聞いてみよう」。それが私のカウンセリング初体験だった。もともと、電話をかけるのも受けるのも苦手、特に自分からかけるのはとにかく緊張する。何を申込の電話で伝えればいいのか、紙に書きだし、何度も練習してから電話をかけた。電話を受けた人が、怖い人だったらどうしよう…、こんなことで悩んでいて、変に思われないだろうか…、予約の電話をする準備だけでヘトヘトだった。しかも、普通はどう申込をするかわからないまま、「大須賀先生に相談したいことがあって」と、ご指名してしまった。仕事をさせてもらえないかと相談するには、理事長でないとだめだろうなと思った。
 いよいよ予約の日がきた。予約をいれてからもずっと緊張は続いていた。こんな調子でお話ができるだろうか…。話をすることが苦手な私は、ますます不安になった。センターへ着くと、奥の部屋へ案内された。大須賀先生が入ってこられるまでの間、緊張はピークとなり、よく言われる「心臓が口から出そうな」状況だった。「トントン」とドアがノックされ、大須賀先生が入ってこられた。まずはどうしたらいいんだろうとよくわからず、立ち上がり、「カウンセリングを勉強しているIと言います」とあいさつした。先生は、両手を広げ、「わー!後輩がきたみたい」と嬉しそうに優しい表情で迎えてくれた。普段は、大勢の人を前に講演している先生が、初対面でずっと年下の私を前にして、偉そうな振る舞いもなく、まだ何も話していないけれど、来たこと自体、会えたことそのものを喜んでくれたようだった。先生はお耳が少し遠くなってきていて、ご自身の耳に手をそっとあて、私のたどたどしいまとまりのない話に耳を傾けてくれた。そして、私は図々しくも、「ここでは働けないでしょうか」と聞いてみた。「ここは人が足りているからねぇ」とのことだったけれど、それまで講演などで話していた仏教の話をしてくれた。「諸行無常」状況は変わらないようにみえて、すべてのものは常にとどまらず変わり続けているんだよ、と。「この先もずっと仕事が見つからず変わらないのではないか」、「今相談の仕事につけないと必要な資格が取れなくなってしまう…」と焦って八方ふさがりとしか考えられなくなっていた思考をやさしく揉みほぐしてくれた。

 カウンセリングにきたのはその1回だったが、その日をきっかけにセンターで行われていた「東洋の智恵とカウンセリング」という講座(大須賀先生が講師で月1回開催されていた)やカウンセリングセミナーなどに参加するようになった。そうしているうちに、少しずつ、本当に少しずつ、月1~2回の市の乳幼児健診の仕事、週1回の中学校での相談員の仕事など、「聴く」仕事に携わることができるようになっていった。
 大学時代の恩師が、「この仕事はゆりかごから墓場までだから、どんな仕事でも大事だよ」と、思うように仕事がみつからない状況を励まし続けてくれた。その頃生意気に「やりたいこととは違う)と思っていた仕事や、「回り道している」と感じていた仕事も、どれも今につながっていて、その1つ1つが今を支えていると思うようになった。縁あって、今、カウンセリングセンターで働いている。迷いながら緊張しながら予約の電話をし、相談にきている方に、私はどのようにお会いしているだろうか。あのときの大須賀先生のように、こられた方が感じているまま、相手の方の気持ちにそっと寄り添うことができているだろうか。
 そういえば、あれからちょうど20年。たった一回の面接を今でもはっきり覚えている。「見てるよ」という大須賀先生からのメッセージだったのかもしれない。

 

 

 

朝活のススメ

 私が中学の時、担任の先生に「朝って、気持ちいいですよね~」と心をウキウキさせて言ったら、「先生、朝、苦手だな~」と元気のない声が返ってきて、想定外の言葉に「えっ」と思ったことを覚えています。
 それから私も成長して「許されるならば朝はいつまでも寝ていたい」大人になりました。朝寝ていたいということはその分夜が遅いんですよね。家事が終わってから自分のことをやると、疲れて眠たくてあまり集中できなかったり、うたたねしてしまったり、ついつい無駄に夜更かしをしてしまったり…。それが続き、私は、夜はやりたいことがあまりできないことに気づきました。
 「そうだ!朝活しよう」と思い立ち、最近は朝4時に目覚まし時計をセットしています。4時きっかりには起きられませんが、しばらく布団の上で足首を回した後、思い切って窓を開けると、気持ちのよいひんやりとした朝の空気が入ってきます。まだ車の往来も少ないので小鳥のさえずりもはっきりと聞こえます。夜早く寝ると疲れもとれていて、思ったより眠気もありません。朝活、なかなかいいです。「先生、やっぱり、朝って、気持ちいいですよ~」



 

「リーダーのあり方」について考えたこと

◆真摯さ
 私が(公財)茨城カウンセリングセンターの副理事長に就任してほぼ1年が経ち、その責任の重さと大変さがじわりじわりと身に染みてきました。そういうわけで最近は、「リーダーのあり方」について考えることが増えました。
 そんな折、常磐線の車内で何気なく吊り広告を見たら、本の広告に「リーダーの条件は真摯さ」と書いてあり、それがなぜか心に残りました。帰宅して調べてみると、「真摯」とは「まじめでひたむきなさま」(広辞苑)とありました。「リーダーが真摯である」とはどんなことでしょうか。ニュアンスとしては、「熱情を持ち信じる道を突き進む」というよりは、どこか「謙虚さ」を感じます。リーダーの謙虚さとは、「自分を過信せずに常に自分のありようをふり返る、部下を大切にする」という姿勢に現れると思います。「公平さ、公正さ」も必要でしょう。ふむふむ、これなら私でも努力すれば近づけるかもしれないなと思いました。なにせ私には、「俺についてこい」は無理だと思っていますので。

◆PM理論
 社会心理学者の三隅二不二(みすみ じゅうじ)はリーダーシップに関するPM理論を作りました。解説によれば、リーダーシップP(Performanse)「目標達成能力」とM(Maintenance)「集団維持能力」の2つの能力要素で構成されるとあります。要するにリーダーには、目標設定や計画立案、メンバーへの指示などにより目標を達成する能力(P)と、メンバー間の人間関係を良好に保ち、集団のまとまりを維持する能力(M)の両方が必要だということです。至極当然なことなのですが、リーダーと言っても、皆一人一人違う個人ですので得意不得意があり、それを自覚し、必要なら修正してバランスを取るべきだとのこと。なるほどリーダーは組織内のコミュニケーションを大切にしなければならないのだなと、改めてうなずかされます。

◆責任
 以前大企業の管理職をされていた人から、「組織が順調に動いている時は、責任者は後ろにいてスタッフに光が当たるようにしてやればいいのです。でも事業をしていれば必ずトラブルが生じます。その時こそ責任者が前面に出て問題の収束に当たり、部下を守り育てねばならない。そのために責任者はいるのです」と言われ、その人にとても温かいものと敬意を覚えました。しかし最近、不祥事が生じても責任を取ろうとしないリーダーが社会のあちこちで報じられることは、とても悲しいことです。

◆一緒に考える
 組織に生じた問題をただのエピソードとして処理せずに、「問題から学ぶことで組織を改善する」ということもリーダーの大事な責任の取り方だと思います。そのためには、まずリーダーが担当者と一緒に問題の意味や対処を考えることです。担当者にとっては、リーダーが当事者として一緒に考えてくれれば、どんなに安心かと思います。しかし実際には、部下の企画や報告にダメを出し続けるが答えは言わない上司、事態への対処を相談する部下を「それは君の仕事だろう」と突き放す上司、そうした対応に多くの人が苦しむのを面接で見てきました。一緒に考えたから最良の案が生まれるという保証はないですが、担当者の孤立感を和らげ自分の仕事に意義を感じられる状況を作れるのではないでしょうか。

◆継続
 以前企業に勤めていた時、「経営の目的は継続にある」と教わりました。これは、企業は社員(その家族)や顧客、関係企業などに責任を有する社会的存在であることを自覚せよということでした。その観点からは「利潤の追求」は企業の目的ではなく、継続するには、その存在と活動内容を社会の人々から認めてもらわねばなりません。大変重たい課題です。

◆安心と有用性
 今たくさんの企業や社会的組織がありますが、この厳しい現代社会で行き残るには、「安心と有用性」が不可欠の条件だと思っています。つまり、その組織が社会や利用者に「安心・信頼」と「役に立つ」というイメージを持ってもらえるか、ということです。「安心・信頼」のイメージとは、例えば 「茨城カウンセリングセンターに行けば、ていねいに誠実に対応してくれる。少なくてもおかしなことはしない」ということでしょう。また、「役に立つ」とは、「茨城カウンセリングセンターのカウンセリングがあって助かった。カウンセリング講座は面白くてためになる。依頼すれば快くよい講演や研修をしてくれる」ということでしょうか。一言で言えば、「茨城カウンセリングセンターがあってよかった」と地域の人々や産業界から思っていただけるようになることです。もしそれがなくなれば、茨城カウンセリングセンターの存在意味が揺らいでしまうでしょう。

◆育てる・育てられる
 地域から必要な存在と思っていただくためには、日々の活動を地道に積み重ねることが基本になるでしょう。一つ一つの面接、一つ一つの研修を、誠実に心を込めてやっていきたいと思います。そのためにも個々のスタッフはもとより組織としての力量や社会的見識を向上させていく、つまり育てることに努力したいと思います。一方、私自身も育ててほしいと思っています。リーダーだからと力まずに(力んでもあまりよいことがありません)、職場の仲間や、面接や講座に来て下さる方々、メンタルヘルスに一緒に取り組んでいる産業界の方々に、教えてもらい育ててもらうことを願っています。
 そのようなことを心がけていけば、「まぁ、そんなにおかしなことにはならないだろう」と自分を慰めることにしています。



 

私のカウンセリングとの出会い

 私のカウンセリングとの出会いは、大学3年生の時でした。当時の私は、小学校教諭を養成する学科に在籍していました。高校生の頃に漠然とではありましたが、「学校の先生になりたいな」と思って、自分で志望した学科でした。でも、2年、3年と勉強が専門的になるに連れて、勉強に身が入らなくなっていました。勉強内容に面白さを感じられず、ただ受動的に授業や試験を受けていたように思います。けれど、当時の私はそのような自分の状況にあまり自覚的ではありませんでした。サークルやアルバイト、学園祭の実行委員などをしていて、毎日が忙しく過ぎていましたし、それらの活動が充実感を補ってくれていたのだと思います。
 そのような日常の中で、たまたま友人が「カウンセリングを受けてみて、とても良かった」と話しているのを耳にしました。私が通っていた大学には、在籍学生が無料で受けられるカウンセリング機関がありました。私はその話を聞いて、何となく、自分もカウンセリングを受けてみようかなという気持ちになりました。これといって、どうしても相談したいことがあるわけではなかったけれど、カウンセリングというものに興味もあり、予約をしました。

 はじめてのカウンセリングで、私は「びっくり」しました。そのカウンセリングの最中に涙が止まらなくなってしまったからです。それまで、悲しいとか辛いとか、泣きたいような気持ちが自分の中にあるなんて、思ってもいませんでした。ただ「何となく」カウンセリングに来ただけだったのに、話を始めたら涙が止まらなくなってしまった。そのことに驚きました。そして、泣きながらも、堰を切ったように話をしたのを覚えています。カウンセラーに「自分はもう先生にはなりたくないんだ」ということを話す(言葉にする)のと同時に、自分の心の中で「そうだったんだ、私は、先生にはなりたくないんだ」と気がつく、という不思議な感覚を経験したことも覚えています。泣きながら話す私に、そのカウンセラーは「ここまで来たんだから、もう少し頑張ってみたら」とか「やりたくなかったらやめてもいいんだよ」とか、そういうことは何も言いませんでした。ただ「あなたの中にそのような気持ちがあるんですね。」と受け止めてくれました。
 また、「学校の先生になりたくない」という単純な自分の気持ちに、それまでは気づかなかった、自覚していなかったということにも驚きました。当時の私の友人はほとんどが教諭志望でした。その中で「自分は教諭にはならない」となった時、疎外感に留まらず、「何のためにここにいるのか」、一人暮らしをして大学に通っている、私の学生としての存在意義が足元から崩れ落ちてしまうことになったのだと思います。そして延いては私の人生の意味、存在価値はあるのだろうか、そのような深刻な問いに結びついてしまう予感があったかもしれません。両親に授業料や家賃、生活費の仕送りもしてもらっていたので、それまでのお金を無駄にさせてしまうということも、当時の私にとっては受け入れ難いことでした。そのような不安や怖さ、深刻な問い、ネガテイブな感情等を一人では抱えきれないから、向き合えないから、気づかないように生活していた、やり過ごしていたのだと思います。


 カウンセリングの世界に「よき聴き手に恵まれると、人は安心して自分自身の心に耳を傾けることがで  きる」という言葉があります。人は、カウンセラーという「よき聴き手」との人間関係を深めることによ  って、
  1 心から「受けとめてもらう」ことにより、心がほぐれ、やわらいでくる。
  2 安心して自分自身の心に耳を傾けるので、本当の気持ちに気づきやすくなる。
  3 自身が何に縛られ、何にとらわれていたかに気づき(目覚め)やすくなる。
  ということを体験していきます。
  このようなカウンセリング関係を丁寧に育んでいくことによって、人は心の悩みを解消したり、その問題や悩みへの見方や考え方を柔軟に修正したりすることができるようになります。

                       (公財)茨城カウンセリングセンターホームページより

 
私は、カウンセリングでよき聴き手に恵まれたことで、心がほぐれ、ほっとして「ここでなら、『もう先生になりたくない』ということについて考えてもいいんだ、話してもいいんだ」と感じることができたのだと思います。そして、その後継続してカウンセリングを受けましたが、その中で、少しずつ、自分の不安やネガティブな気持ちにも耳を傾けられるようになっていきました。その過程で、なぜ私は学校の先生になりたかったのだろう?それは親が敷いた線路に乗っただけではなかったのか?なぜ私は親の「いい子」をやりたいのだろう?本当の私って何だろう?というような様々な疑問や葛藤にもぶつかりました。そのため、カウンセリングは決して「楽しい場所」ではありませんでしたが、その時の私にとっては「必要な場所でした。一人では抱えきれないような感情も、「聴いてくれる」、その感情と、感情を抱えた私を「見守ってくれる」、ということが私を安心させ、それらを見つめていく作業を可能にさせていたのだと思います。後になってみれば、その私の葛藤等は「アイデンテイテイの確立」という青年期の発達段階としてありふれたものだったかもしれません。
しかし、カウンセラーはたった一人の、唯一の「私の物語」として聴いてくれていた、受け止めてくれていたのだと感じています。
 今、そのカウンセリングのことを思い出すと、ただそのカウンセラーが真剣に、逃げずに、私のこころに寄り添って話を聞いてくれた、その優しい、穏やかな「雰囲気」を思い出します。私のカウンセリングとの出会いは、カウンセラーとの出会いであり、その「雰囲気」との出会いでした。出会えたことに、感謝しています。






 

カウンセリング講座入門コースへのお誘い
~魅力ある講師たち~

 茨城カウンセリングセンターは、おかげさまで40年近くも安定して存在しています。それは、県民の皆様の支持、サポートのあるおかげです。そのためか、相談件数はますます増え続けています。その茨城カウンセリングセンターのカウンセリング講座は、一般の人が誰でも受講できるものとして人気があります。その理由のひとつは、なるべく専門用語を使わず、大変わかりやすく伝えようとしているからだと思います。そして、非常に普遍的な人間観、カウンセリング観をもっているからだと思います。そのためには講師陣をそろえる必要があります。少しご紹介します。
 まず諸富祥彦先生。明治大学教授で非常に深い人間観をもったカウンセラーです。彼は、カウンセリングは技術というより、その人の在り方、人に対する「心の姿勢」だと言います。「夜と霧」で有名なフランクルの研究家でもあり、若き日の自身の精神的苦闘から生まれたカウンセリング観は、分かりやすく、私たちの胸に響きます。
 次に小原昌之先生。「茨城県高次脳機能障害支援センター」のセンター長です。県内の心理・カウンセリング関係の中心を歩み、「心の医療センター」などで活躍してきました。しかし彼のフィールド・ワークを通して、人が癒されることを深く探求し続けています。人間がもつ潜在的な治癒力に深く目が注がれているカウンセリング観は、分かりやすく感動的です。
 最後に関根一夫先生。オーストラリアの神学大学で学んだ牧師さんです。しかしカウンセラーとしても素晴らしい活躍をしています。医師たちや現場の医療スタッフに、そして何よりも多くの相談に来る人々に非常に信頼されています。その暖かい人柄に接すれば、カウンセリングの基本が何であるかが分かります。彫刻家の金子健二氏や脳外科医の木村伸氏たちと「臨床美術協会」を設立。「存在承認的カウンセリング」が認知症の方々や障害を持つ人々へのいかに重要なサポートになるかを実証しました。子供が健やかに成長していくための基礎的な心の栄養になることを明らかにしてきました。彼は芸術療法にも明るく音楽や美術を通してのカウンセリングについても分かりやすく話してくれます。
 この3人とも「人は生まれてきたこと自体に価値があるのだ」「だから、あなたはすでにあなたのままで価値があるのだ」という人間観で共通しています。それは「心が追い詰められている人」ほど、その人間観に敏感だからです。これはこのカウンセリング講座に一貫して流れている人間観です。この講座は今年の10月下旬に月1回(全10回)の日程で始まります。原則としてどなたでも参加できます。茨城カウンセリングセンターまで、お気軽にお問合せください。




 

私のアンガ―マネジメント ~怒りとのつきあい方~

 最近、アンガ―マネジメントについての研修依頼が増えているように思います。アンガ―マネジメントとは、自分自身の怒り(アンガー)とうまくつきあう方法です。怒りとどうつきあうかは、私たちにとって大きなテーマになってきているのでしょう。

 私たちの身の回りで起こっているさまざまな問題、例えば、職場でのパワーハラスメントや学校での体罰、家庭内暴力、モラルハラスメント、さまざまな犯罪や虐待などの背景にも怒りの問題が潜んでいます。そこまで大きな問題ではなくても、イライラ、ムカムカ、頭にくるのは日常茶飯事です。喜怒哀楽と言われるように、怒りは私たちにとって自然に生まれてくる感情ですが、一番つきあうのが難しい感情と言われています。
 私自身も子育て中なので、子どもの言動にイライラして、ついきつく怒ってしまうことがあります。すると子共も機嫌をそこねて、ギスギスした関係になってしまいます。決して他人事ではありません。怒りとどうつきあうかは、私たち一人一人が自分のこととして考えた方がいいテーマです。そこで今回は、私なりに考えていることをご紹介したいと思います。

 怒りを観察してみると、私にはこんな風に見えます。
 ①私たちは、怒りに支配されやすい。
 ②小さなことが積もり積もって、怒りになってあふれ出す。
 ③怒りと真正面から取り組まない方がいい。
 ④怒りには「遊び心」が必要。

 それぞれ関係していますが、少し説明すると、①怒りに支配されやすいというのは、怒りは私たちを守る防衛本能でもあるからだと思います。危険にさらされたと私たちの身体が感じると、身を守るために怒りで対抗します。例えば、猫をいじめてひっかかれた経験ありませんか?怒りは本能的な防衛反応なので、それだけ強く出るのだと思います。また、怒りはお酒を飲んで酔っ払うのと似ています。お酒と同じように、怒っているうちに酔ってしまい、気持ちがよくなり、見境がなくなってしまうことがあります。これは自分では気づきませんが、怒っている人をみるとよくわかります。
 ②小さなことが積り積もって、怒りになってあふれ出すというのは、いろいろ我慢していて、堪忍袋の尾が切れる=怒りの爆発ということです。一つ一つ溜まるのは怒りとは少し違う感情です。例えば、もっと相手にして欲しいのに言葉が足りなくてさみしかったとか、そっけない態度を取られて悲しかったとか、いつも家事を頑張っているのにねぎらいの言葉がなくてがっかりしたとか、そういう小さな傷つき体験が重なり、仕事に行く前に「行って来ます」がなかったことが最後のとどめになり、「もうこんな人とは暮らしていけない!」となったりします。

 相手が怒りを爆発させてくる場合に、③相手の怒りと真正面から取り組まない方がいいです。相手はたくさん傷ついているわけですから、怒りの後ろにある傷ついた気持ちを受け止めるようにした方がいいですよね。相手が怒っているときに、怒りで返したり、理屈で言い返したりすると…修羅場になります。気をつけましょう。
 また、自分の怒りに対しても真正面から取り組まない方がいいです。なぜなら①で述べたように、私たちは怒りに容易に支配されてしまうからです。怒りと一体になってしまうんですね。それなので距離をとるというのがとても大切です。例えば、目の前にいる子どもがいつまで経っても支度しないことにイライラしているときは、おそらく子供のことをずっと見ています。そして「何してるの!」「早くしなさい」と言い続けてしまいます。そういうときは、とりあえず子供から離れること。自分は別のことをすることが大切ですね。距離をとることが「遊び」につながります。

 ④「遊び」とは、ぴったりくっつかないで余裕があることです。「遊び心」で楽しめるとなおいいです。例えば、自分の怒りをキャラクターにしてみるのはオススメです。私の場合は、炎のような形で、怖い目をして口を大きく開けた怒りのキャラクターがいます。「メラ男くん」と名づけています。怒りに支配されそうになったときに「メラ男くんが来た」と思います。「メラ男くん」がどのくらい大きいかな、強烈かなと自己観察すると、怒りに任せて何かしてしまうというのが防ぐことができます。

 また、相手と自分が抜き差しならない怒りの渦に巻き込まれてしまっていることを「笑ってしまう」のもいいですね。「生きているとこういうことあるよね。これって生きることの一部だよね。」と宇宙から自分を見下ろしてみる視点、あるいは、「私が死んだときに走馬灯のように人生を思い出す一場面になるかな」と想像してみるのもいいですね。
 以上のように、怒りに「遊び心」を注いでみるということが、私のアンガーマネンジメントです。ただ、怒りは我慢すればいいというのではありません。怒りと少し距離が取れ、「遊び」ができたら、自分が本当に伝えたいことを相手に伝えることはとても大切なことです。
 



 

緩和ケア病棟

 緩和ケアに移ってからちょうど10日目、父が旅立った。看護師さんの話では午前中は会話していたそうで、特に変わった様子はなかったそうである。どうやら、いつのまにか眠るように亡くなったようであった。4カ月前にガンの告知をされた時、すでに父は自ら積極的な治療は断っていた。我々家族もその時からいつかこの日が訪れることは理解していたが、それが現実になるとやはり冷静ではいられなかった。
 緩和ケア病室は病棟の6階にあった。私は病室まで階段で往復することを日課にしていた。1階は給食を作る部屋、2階と3階は何の診療科かはわからないが診察室があり、4階から上は病室が並んでいた。ある日、いつものように階段を登っていくと4階の病室が目に入った。そこには窓越しに生まれたばかりの赤ちゃんを眺める人々の姿があった。いつもは時間が遅いせいかカーテンが閉まっていたのであるが、その日は日中訪れたのでその光景を目にすることとなった。窓際の人々は皆懸命に赤ちゃんを見つめ、その一挙手一投足に反応していた。それから私はさらに階段を登り、父の緩和ケアの病室へと向かった。そこにはベッドに静かに横たわる父の姿があった。同じ病棟の4階と6階、たった高さでは数メートルに過ぎない所にある同じ命。一方は始まったばかりの命、そしてもう一方は間もなく終わろうとしている命。4階の赤ちゃんたちもいつかは6階にたどり着く。しかし、その間にはそれぞれの人生が横たわる。父にもたった数メートルの高さでは収まりきれない87年間の人生、そして物語があったのだ。
 以前新聞で読んだ記事に「人は生きたように死んでいく」という一文があった。不平を言いながら生きてきた人は、不平を言いながら死んでいく。「周囲に感謝する。そんな良き生を送った人は、実は看取りやすい」のだそうである。普段あまり冗談も言わない父であったが、緩和ケアに移ってからは別れ際に必ず感謝の言葉を口にしていた。私はきっと父の人生は良かったのだろうと思い、少しほっとした。







 

そを 聴きにゆく

 最近は上野駅で乗り降りすることがめっきり減ってしまった。上野東京ラインが、常磐線の品川直通列車を増強したからである。たしかに首都圏などに用事があるときは便利になった。しかし、やや置き去りにされつつある上野駅に今日はやわらかな光を当ててみたい。
 その上野駅の15番ホームの線路終端部付近に、石碑ではなく金属製の歌碑がある。石川啄木の三行分けの散文的スタイルの、あの短歌である。

          ふるさとの  訛(なまり)なつかし
          停車場の   人ごみの中に
          そを 聴きにゆく
                         啄木

 岩手県渋民村の出身である啄木の故郷を想う郷愁の歌であろう。
 しかし、この歌は時を超えて愛されてきた。この歌碑の舞台である上野駅は、この歌と共にその時代、時代を懸命に生きてきた。中でも戦後の経済成長を背景にした「集団就職列車」から降り立った少年少女を受けとめたのも上野駅である。

 あらためて思うのは、この短歌は深く心に響いてくる普遍性をもった歌だということである。私は特に三行目の「そを 聴きにゆく」に心動かされる。これはカウンセリンングのテーマでもあるからだ。おそらく、人は苦しいとき、心追いつめられたとき、「そ」を聴きにゆく。そしてぎりぎりのところで、「そ」にたどり着き、自分を支える「そ」を聴き取ってゆく。多くのクライアントも、カウンセリングルームに「そを 聴きにゆく」のではないだろうか。
 誰でも程度の差はあれ、一人の人間として、切実に「そを 聴きにゆく」体験を持っている。だからこそ、その大変さも、大切さも身に沁みて知っている。そしてその体験こそが、他者の「そを 聴きにゆく」心の旅への同伴者としての、「暖かいまなざし」を育むのではないだろうか。 




 

 

共感に支えられた経験

 今から30年前の小学5年生の時。同級生たちと校内の陸上大会に向け、ハードル走の練習をしていた。突然、体育の先生が現れ、私ともう一人の友人を指名した。今から2人で競争し、勝った方が学校代表で地域の陸上記録会に出場することを伝えられた。
 突然のことに驚いたと言うより、とても動揺した。「よし、頑張るぞ!」とか「嫌だよ~」とか思う余裕もないままスタート位置に立った。「どうしよう」と頭の中が真っ白で、かつてないほど自分の心臓の鼓動が大きく聞こえた。無我夢中で走り、途中までリードしていたのは覚えている。でも、私は最後のハードルに足を引っ掛け、転倒してしまった。
 自分がどんなふうにゴールしたのか覚えていない。覚えているのは保健室の場面。擦りむいた傷の手当てが終わっても泣きやむことがなかった。そして傍らには普段、関わりのない若い女性のM先生がいた。何も言葉にできず、ただ涙を流す私にそっと声を掛けてくれた。「急にお友達と競争することになって、びっくりしちゃったよね」と。その言葉を聞いて、何度もうなずき、さらに涙があふれた。
 今、振り返ると、不思議だ。なぜM先生には私の気持ちがわかったのか。普通、私の様子をみたら「負けてくやしかった」とか「転んで痛かった」とか思うのではないだろうか。でも、M先生は「急に代表選考のために友人と直接対決することになり、そのプレッシャーに押しつぶされてしまった」という私の気持ちを察し、言葉にし、受け止めてくれた。
 あの時、M先生がいなかったら、10歳の私には、自分の気持ちや状態を理解したり認めたりすることは難しかっただろう。誰かに共感してもらえることの安堵感や心強さを体験した私は、それを支えに自分なりにこの出来事を乗り越えられたように思う。
 私は当時のM先生の年齢をとうに過ぎた。もしかしたら教員になったばかりのM先生にも心が折れそうになった体験や、支えられたと感じる経験があったかもしれないと思った。
 あの西日が差す保健室の温かな雰囲気を思い出すと、ふと心が柔らかくなるような感覚があり、今でも私を支えてくれていると感じる。

 茨城新聞「心の時代へ」 2019年 1月20日掲載



 

ゆく川の流れは… ~対話への誘い~

 平成最後の年になりました。平成20年を迎えた時、平成生まれの人が、もう成人になるのだ…との感慨を覚えたことを思い出します。今や平成も31年、平成生まれの人達が社会の前線で活躍する時代になり、昭和は少しずつ遠くなりつつあります。
 今年、友人から届いた年賀状に「時代の変化についていけません」との添え書きが書いてありました。自分が年を取ってきたこともあると思いますが、変化のスピードが非常に速いということは、私も実感として感じています。10年ひと昔といいますが、現在はもっと早いサイクルで変化が起こっています。

 茨城カウンセリングセンターも財団化されて早23年になります。この間、県内で、こころの問題を扱う診療内科や精神科のクリニックが、数多く開院し、いずれのクリニックも予約がすぐに取れない状況にあります。それだけ、心身の不調を感じる方が増えているということだと思います。
 今、ITやAIの技術革新が日進月歩で進み、少し前まで不可能であったことが可能になつてきています。生活は便利になり、私たちはその恩恵を受けています。情報量は圧倒的に多くなり、今までの常識がそのままでは通用しないことも起こっています。また、ライフスタイルも変化しています。その多様化する状況の中で、自分を保ち、生きていくのはなかなか大変なことです。どこかに不調感が出るのは、当たり前かもしれません。
 一方、県内のカウンセリング機関や相談機関は、増えているでしょうか。いくつかの相談窓口が新設されたり、増設されたことはあると思いますが、その数は、医療機関の増加には及ばず、カウンセリングセンター設立時とほとんど変わりはないと思われます。

 センターには、毎日予約の電話があります。その数は日々増加中です。「電話相談の所に電話したが、何度電話しても、つながらない、どうしたらいいのだ!」という悲鳴に近い電話を受けることがあります。行きどころのない訴えを前に、胸が痛みます。どこの相談機関でも需要にマンパワーが追い付かない中でやり繰りしているのが実情ではないでしょうか。
 カウンセリングでは、カウンセラーと相談にいらした方とがご一緒に、こころの内側に時間をかけて丁寧に接していきます。一人一人と対話しながら進めていく手作業のアナログの世界です。ですから、手間がかかります。カウンセリングの機関が増加しないのはこのような事情があると思われます。カウンセリングセンターが今日まで維持されているのは、こうしたカウンセリングの特質を理解し、支援して下さる多くの方々がおられることを改めて有り難いことだと感じています。

 生老病死、四苦八苦といわれるように、私たちは、人生の途中で、さまざまな困難に出会います。最近は、自然災害も多く発生し、突然思いもよらぬ世界に身を置くようになる事も稀ではなくなりました。私たち人間の営みから悲しみや苦しみ、不安をなくすことはできないのです。しかし、人は、困難な状況を生き抜く、とても、しなやかで強いところを持っています。と同時に、デリケートでとても傷つきやすい側面も併せ持っていると思います。こころの世界は、そう簡単にリセットすることはできません。1つの事柄について、様々な考えや感情が沸き起こるのが人間です。生身の人間は、生きてきた歴史があり、一人ずつ違います。ひとくくりにして対応することはできないのです。一般化せず、独自の世界を生きている「あなた」との対話をしていくのがカウンセリングです。たった一人の存在の「あなた」に、光を当て、道を探していく営みなのです。

 今年も3月11日がやってきました。8年前の東日本大震災のことを思い出します。あの時に、人がそばにいてくれるということが、どんなにこころ強いものかを実感しました。私たちは、傷ついたり、こころが揺れたりするときに、誰かがそばにいてくれたら、何とか自分を保ち、そこにいることができるのです。
 あの危機的状況の中で、私は普段は見えない「素」の自分に出会ったと思います。自分は一人で生きているようでも実は不完全な存在で、いつでも誰かの支えを必要としていること、いのちの儚さや、愛おしさ、大自然の一部であることなどなど。あの日の夜の星空の美しさを語ってくれた人がいました。やっと連絡が取れ再会した友人は、庭に咲くタンポポを見て涙ぐみ、自分は生きている、生かされているんだ…とぽつりといいました。
 日常の覆いが取り払われたとき、パンドラの箱ではありませんが、人間の中にある複雑な感情が表面化してきたことを思い出します。否定的な感情(恐怖、絶望、拒否、嫉妬など)と共に痛みへの共感性という極めて人間的な感情もあふれ出てきたと感じます。被災した人に手を差し伸べる人がいました。また、互いに手を差し伸べあい、危機的状況を生き抜いてきている人達がいます。それは、私=支える人、あなた=支えられる人という固定された関係ではなく、共に痛みを感じ、困難を抱きつつ生きている人としての共感から、生まれた行為だと思います。深い意味でのシェアリングが起こったのです。
 職場や家庭、地域、そして社会の中で人と人との軋みが目につくようになってきます。自己中心性からいかに脱却して、受けとめあう社会をどうやって生み出してゆくか、このテーマは有史以来ずっとあるように思います。私は、対話が生み出す力を信じていきたいと思います。其処で既に、その芽が生まれていることも感じているのです。大きな転換期を迎えている時代の流れはどこへ向かってゆくのでしょうか。




 

そうだ、目指せ『夜廻り猫』だった

 どうして今のお仕事をされているんですかと聞かれることがある。うーん、どうしてだろう… 2つの出来事が思い出される。

 私は、中学に入り、部活動選びに迷っていた。たまたま小学校のときから仲のよかったWさんと一緒に陸上部に決めた。入部届をする直前になって、Wさんはお姉さんの勧めでほかの部に替えた。一人で入ることになり不安になったが、入ってみると友人関係は穏やかで優しい仲間ばかりだった。小学校までは校内持久走大会も賞状をもらえていて、走ることは楽しみの一つだった。部活動中心の学校生活になり、朝、夕、短距離走、長距離走、筋トレとハードな練習が続き、体調が優れない日が多くなっていった。椅子から立ちあがるたびフラっと立ちくらみがおこり、立っていられない。ウォーミングアップのジョギングだけで、足が前に進まない。中1の1学期終業式で全校生徒がグラウンドに立っていたときのこと、前の子と「こういうときにときどき倒れちゃう人っているよねー!」と話していたほんの少しあと、私は急に話しをしている校長先生の声も校歌の演奏もどこか遠くなり、目の前に幕が下りてくるような感覚になった。次の瞬間、その場でバターンと倒れた。自分がなってみると「気分が悪い」という一言がなかなか言えないものだと知った。その日から、集会のある日が「また倒れるのではないか」と恐怖になった。中学生の間、数えきれないほど集会で倒れた。その当時、身長158センチで体重は38~40kg、顔色が悪いとよく言われた。そのときはわからなかったが、貧血だったんだと思う。

 部活動の男性I先生は、「ホラ行けー!それ走れー!」と手を叩き、飛び出そうなぐらい目を見開き、大きな声で喝を入れた。ただただ怖かった。熱血指導があたり前で「やる気を出せ!」「根性がない!」という世の中だった。部活の練習のきつさも、体調の悪さもあり毎日が苦しい日々となった。その脇をほかの全校生徒が登校する。「本当はこんなんじゃないのに・・」と悔しく、恥ずかしかった。私は何をしてもダメな人になったと感じ、すべてのことに自信を失くした。どうがんばってもできないこと、どうがんばってもできないときもあるものだと感じた。中でもしんどかったのは、チームによるゲーム形式の練習。私が入ったチームは圧倒的に不利になる。最下位のチームは、坂道ダッシュや腕立て伏せの罰ゲームがある。私はいつも申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、誰も迷惑そうにする人はいなかった。教室で明るくしたら部活でももっと元気にできるんじゃないの?と思われそうで、自分がどう振る舞ってよいのかわからなくなっていった。
 夕方の練習を終えると、次の朝練まであと何時間と頭の中でカウントダウンがはじまる。明日がこないでほしい、いなくなりたい、と毎日毎日考えて、心も身体も元気がなくなってしまい、次第に引っ込み思案になっていった。心のなかで「助けて!」「つらい」と叫んでいたが、言えなかった。人は、苦しい状況真っ只中のとき、自分から助けを求めるのは難しいのかもしれない。つらい状況にある人に気づく人が必要だと思った。

 このころの私の支えは、部活の友だちが貸してくれた2本のカセットテープだった。(長渕剛さんのアルバム『Hold Your Last Chance』『STAY DREAM』)こんなにつらい毎日を送っているのは自分だけなのではないかと思っていた私の心の隅ずみに歌詞の一言一言が染み渡った。「ひとりじゃない」という力強いメッセージ。冷え切った心を優しさあふれる言葉で温めてくれた。お風呂の前にカセットデッキを置き、毎日涙を流しながら何度も聴いた。何とかこの時期をやり過ごせたのは、このカセットテープの歌があったことと、周りの人たちが、「つらそうなの、わかってるよ」という態度で見守ってくれていたお陰だと思う。

 大学生の3年生が終わった春休み、私は何度も学校から呼び出された。4年になって始まる卒業論文指導の担当教官がなかなかきまらなかったのだ。自分でまとめたいテーマがあいまいでなかなか引き受けてくれる先生が決まらなかった。4人目の臨床心理学やカウンセリングを専門としているS先生と面談し、「この春休み中に教官が決まらないと4年生になれない、困っている、悩んでいる」と打ち明けた。先生に断られたら、もう卒業もできない…と困り果てた私の話にしっかり耳を傾け、うなずきながらきいてくれ、あっさり引き受けてくださった。卒論指導でも、指摘されたり叱責されるのではないかと恐る恐る計画どうりに進んでいないことやどういう風に論文を組み立てていったらいいのかわからないことを話すと、次に進めそうなヒントや、具体的な進め方を丁寧にわかりやすく教えてくれた。心の中まで見えているかのように感じ取ってくれている気がした。S先生とは今でも年賀状のやりとりが続いている。

 『夜廻り猫』というコミックがある。1話8コマの短編マンガで、「泣く子はおらんか~」「一人こころで泣く子はいねが~」と遠藤平蔵という野良猫が涙の匂いを嗅ぎつけ心で泣いている人の元を訪ね、「よかったら話してみなさらんか」と話を聴くという物語。遠藤は、「そうか、そうか」と聴き共感する。困っていることを解決するわけではない。十分その人の気持ちに寄り添う。遠藤は言う。『こころが休まるというのは、誰かのこころが隣にある。そう思えるときではないか』。(『夜廻り猫の展覧会』深谷かほる著より)そう、私がずっとなりたかったもの、目指してきたもの。心で泣いている人の匂いを感じとり、寄り添うこと。どん底に落ちたとき、一人でもわかろうとする人、耳を傾けようとする人がいれば、どんなに気持ちが和らぐだろう。そんなことを『夜廻り猫』を読んで改めて思い出した。

*『夜廻り猫』 1~4巻 深谷かほる作 講談社
*『夜廻り猫の展覧会』  深谷かほる作 講談社